紫翠楼/WILD FLOWER

箱庭の庭園5本好きの下克上

フェルディナンド×ローゼマイン

 アーレンスバッハの礎を奪った直後の領主会議は、時間が足らずマントの染め替えと配る分だけのブローチを作るのが精一杯だったが、ようやく貴族院の内装も整った。

 壁紙の製造はまだなので、薄い緑の漆喰を塗り、彫刻を施した腰壁とモールディング材を張った。フェルディナンドの合格を得たクリスタルガラスのシャンデリアはお茶会を開く一階の照明から順次入れ替えた。

 天井は格子枠で区切り、蘭・竹・梅・菊をユルゲンシュミットの四季花に置き換えた四君子柄と幾何学模様を描いた板をはめ込んだ。

 これは天井画を描く時間と技術が足りなかったからだ。基本の図柄を渡して、格子に合わせた規格サイズの板に人海戦術絵描かせた。

 壁に掛けられた大型サイズでアレキサンドリアの四季を描いたのはヴィルマだ。普段、挿絵画家として白黒を基本に描いているが、ハイディが用意した油絵具もどきに喜び、こちらも寝食を削る勢いで連作を描きあげた。

 ローゼマインが提案したのは、季節を擬人化して描いた柔らかなアールヌーボーを代表する作風のミュシャをイメージして伝えたのだが、ヴィルマが描くと理知的で格調高い新古典主義っぽい神々と風景を描いた絵になった。

 山間部の春は若葉の森と白い水しぶきを上げる渓流を見下ろすように杖を持つフリュートレーネが穏やかな笑みを浮かべて立っている。小鳥が白い花を咥えて女神に差し出す様はまさに春の訪れ。

 夏は青い空と光る水面の海。白い帆を上げて漁をする船の様子は海のあるアレキサンドリアならではの光景で、槍を持つライデンシャフトが鋭い眼差しで水平線の先を見つめている。

 農村部の秋は黄金色に輝く麦畑。魔力が満ちて豊かに実が詰まった麦穂が揺れ、赤や黄色に色づく木々と明るい表情で収穫を迎える農民の姿。傍らに盾を持ち見守る表情のシュツェーリア。

 冬は夜明けの領都アレキサンドリア。うっすらと雪が積もり、朝日に輝く街並みだが、絵画の中央奥は領主の城ではなく、ローゼマインの図書館とそれに繋がるフェルディナンドの研究所が目立つ構図。東の空から昇る太陽に照らされ、アレキサンドリアの未来と繁栄を示すように荘厳で美しい。この冬の絵だけ、神の顔は描かれず、画面の端にエーヴィリーベのマントとマントの隙間からゲドゥルリーヒの赤い衣装が見え、ゲドゥルリーヒをその腕に囲い込むエーヴィリーベの様子を想像させる構図となっている。

 これはヴィルマがどうしてもエーヴィリーベの顔がフェルディナンドに似てしまい、髪の色や長さを変えても、今度は抱きしめているのがゲドゥルリーヒではなくメスティオノーラになってしまうと言って、苦肉の策で構図を変えたのだ。

 通常、手間暇がかかるタペストリーなど、布の装飾が多い他の領地とはだいぶ趣が違う内装になっている。

 お茶会にも使う楕円のテーブルは、魔木から採取した漆に似た塗料を使っている。

 防火、防水、防腐効果がある優れもので、重ね塗りすることで傷にも強くなり色味はストロベリーブラウンに近い。

 漆のようにかぶれないのだが、採取するあいだ動く枝を捕獲して抑え込むのが難しい。ただ、樹液の量は一回でかなり採取できるので、家具塗装に向いているとあえて栽培を始めた。

 机の表面にはレーギッシュの七色魔石の鱗を加工して、螺鈿細工のような花の模様を描いた。ローゼマインにすれば、貝を集めるより、採取が簡単だからという理由だ。職人が削って張り合わせていく様子に文官達は遠い目をしていたが、ローゼマインは、材料はたくさんあるから失敗しても気にせず納得いくまで練習して、と言って作らせた一品だ。

 透かしの入った飾り格子に障子のような紙を貼った飾り棚。

 カッティングの美しいクリスタルガラスの花瓶には、色とりどりの花を生ける。

 出来たばかりで歴史の浅いアレキサンドリアだから、内装や家具は重厚さよりも新商品のお披露目と位置付けた。

 ローゼマインが目指したのは和モダンだったが、絵心のない彼女の説明で作られると、どちらかと言えば左右非対称のシノワズリっぽい雰囲気になった。

 それでも華美すぎず、可愛らしすぎない雰囲気は、フェルディナンドにも似合うデザインで、このラインでいこうと決めた。

 勿論、談話室には可動式の書架もいれ、エーレンフェストから持参した参考書や植物紙で作った新作に神話絵本、新旧地図学習用のパズルも収めている。

 お茶を注ぐティーカップを見て、透明感のある白磁も作りたいと思ったのだが、土がネックだった。

 なんせ、ユルゲンシュミットは魔力が土台で、石炭や石油など化石燃料が存在するのか怪しい。魔力で調合を行うと、化学や物理の理(ことわり)ではなく、魔力属性に準じた変化が起こるので、質量保存の法則すら怪しい現象が起こる。

 ケイ酸とアルミニウムを主成分とする白色の粘土は向こうの世界であって、ここではどの土がどれに該当して透明釉薬ができるのかがわからず、試行錯誤している。

 確か白磁を作る歴史小説では、殺された恋人の灰をいれて作る話などがあったのを思い出して、魔獣の魔石をすり潰していれればできるだろうかと言って、アレキサンドリアの側近達を絶句させた。

安定供給できないと難しいから、捕獲が確実ではない魔獣は避けたほうが良いと言ったフェルディナンドが追い打ちをかけていたが。

 ローゼマインとフェルディナンドにとって、貴重な素材も普段使いの消耗品だとエーレンフェスト組から説明され、あの二人のレシピは上級文官でも調合が難しいと聞いて、文官達は顔を青ざめさせた。

 逆に自身の魔力が足りないと早々に自覚した中級下級文官は、基礎研究に特化した者もあらわれ始めている

 大量生産するなら大量消費、大量輸送を実現するために蒸気機関車を作りましょうとローゼマインはフェルディナンドに提案した。

 石炭の代わりに魔石を動力に使えば、排気の心配もないし、魔力を充填すれば繰り返し使えて経済的だと思ったのだ。

 キラキラとした眼差しで計画を説明するローゼマインに、フェルディナンドは蟀谷を指で叩く。

「どうやって、湯気の力で荷物を運ぶのだ?」

「えっ?ですから蒸気の力で車輪を回すのです」

「回すだけならばともかく、どうやって300人を超える人や荷馬車数十台に匹敵する荷物を牽引するのだ?」

「えっ?」

 魔力を動力として動かす魔道具が主流のこの世界で、魔力で蒸気を作り、その蒸気で動かすことの説明の難しさにようやく気が付く。

 ローゼマインは書字板に頑張って絵を描き、一生懸命説明したのだが、ピストンの往復運動を軸回転運動に変換するピストン・クランク機構の詳細な説明で行き詰った。

 向こうの世界では当たり前でも、ユルゲンシュミットでは動力研究をする平民など皆無で、貴族は魔道具を使うから魔力消費や素材は考えても魔力を動力に変換するなど考えない。

「とりあえず、その動力部分の構造はおいておくとしても、どうやって均等の厚さと強度をもつ鉄鋼材を用意する?線路とやらを敷くだけでもその鋼材の調達して運搬するのはどうする?そなたが言う規模の鋼材を調合できる釜がないし、その大きさの釜が作れないし、作るとしても設置ができない」

「のおぉ~~」

 フェルディナンドに指摘されてローゼマインは頭を抱える。忘れていたが、平民たちの作る鉄道具は、工房での作成が前提だ。

 だが、ローゼマインが作りたい蒸気機関車は工場での製造が前提だ。

 鉄鉱石など原料を高温で鋳溶かし、不純物を取り除き、冷却と加熱に圧をかけながら板状に形を整える工程を、昔学生時代の工場見学で見た記憶があるが、それを再現することの難しさは言われなくてもわかる。

 プレス加工をするなら、その型も作らなくてはならず、クレーンなどの作業機器がなければ移動や加工もできないと気が付いた。

 工房で製造できる大きさの板を張り合わせるのでは、強度など品質のムラに不安があり、貴族をつぎ込むにしても調合釜以上の大きさは作れない。

 鋼材も硬いだけではなく、動力部や車輪に使用する部分の加熱や摩擦による耐熱性や耐久性など、素材に対する研究と実証が必要なわけで。

 ローゼマインとて紙を作るのに試行錯誤して何度も失敗したのだ。基礎になる知識もなく、鋼材や機構が簡単に再現製造できる訳がない。

 魔力と研究好きで優秀すぎるフェルディナンドの存在があったから、可能だと錯覚してしまったが、家内制手工業から工場製手工業をすっとばして工場製機械工業をめざすような無茶ぶりが可能なら、あまりにもあちらの技術者や研究者の積み重ねを馬鹿にしていると自覚した。

 なまじ『飛び杼』と『自動織機』をフェルディナンドが魔道具で作ってしまったものだから、可能な気がしてしまったのだ。

 現在、直轄地で船に使う帆布を自動織機で生産しながら改良中で、紡績機の完成を待って通常の自動織機二十台ほどが稼働予定になっている。

 ロウ原紙の応用で、ロウを薄く塗る型染めの器具を新たに採用した新人の職人達が試行錯誤で改良している最中だ。

 見本がある機械の改良や横糸を通す手動部分を自動で置き換えるのと、馬車や騎獣から蒸気機関車を作るのでは、そもそも土台が違いすぎるのだ。これで蒸気機関車が発想できるなら、天才というより狂人だとさすがにローゼマインも思った。

 ウンウンと頭を抱えていたのだが、バッと勢いよく顔をあげると「だったら、幹線道路を敷きましょう!」と言った。

「待て、今までの会話のどこにかかったら道を作るになる!きちんと説明をしなさい!」

「フェルディナンド様、大量に作るなら、それを売らなくては在庫の山をかかえて路頭に迷います。そして、一番費用が嵩むのが移送の費用なのです。貴族は奇獣で移動しますが、平民は徒歩か馬車での移動です。この場合、道が悪路であればそれだけ移動に時間を要し、商品の劣化をまねき、費用が増えます。だから、生産地と消費地をつなぐ物流の循環を考えて幹線道路を敷くのです。あと在庫をおく倉庫を確保し、転移陣で他領へ直接送れれば、それだけ移送の日数が短縮できます」

「ローゼマイン、転移陣は上限があるし、魔力消費が馬鹿にならない」

 他領から攻め込まれぬように、攻め込まぬように制限がかかっていることを忘れたのかと、フェルディナンドが顔を顰めるが、ローゼマインは兵士を送るのがまずいのですよね?と問い返す。

「ですから、低魔力で作動させることが可能で、生命確認ができる物は運べないという制限をつけ、送る側と受け取る側での『鍵』が必要とすればどうでしょう?」

 物資輸送に特化した転移陣は他領にも話を通す必要があるので要検討になったが、領都アレキサンドリアを中心に、主なギーベ領を繋ぐ主要な幹線道路はフェルディナンドが図面を描き、エントヴィッケルンの力技で通した。

 一部山間はトンネルで最短距離を繋ぐ。加重や構造の計算をしなくてすむのだから、本当に魔力って便利とローゼマインは思うが、普通大領地の領主でもここまでの大盤振る舞いはしないし、できない。

 道幅は馬車が4台横並びでも十分な幅をとり、水はけを考えてゆるやかな凸カーブをもたせ、両側に歩道を作り、排水用の側溝には蓋をする。

 イメージとしては高速道路や国道で、村々を繋ぐ道や生活道路は各地を治めるギーベが管理すればよいと考えていた。今の身内での口伝に頼る地図もほとんど流通しない状況では、商人を呼び込んで流通を発展させるのが難しい。

 生産するにしても、売るにしても、流通が停滞すれば物もお金も回らない。

 商人と生産者がもっと活発に商品開発を行って、生産された商品を各地に輸送できるようにするためにも、商人が来やすく、商人を目指せる領にしたいとローゼマインは訴える。

 一定の距離でパーキングエリアを模した馬車が停められる休憩所を作り、キャンプ場程度をイメージして有料で使える雨除け程度の東屋には簡易の竃と薪、携帯食と水の販売所も設けた。後に近辺の農家などが自家製の保存食や消耗品を売る小売りの店舗が出来て、道の駅のような場所も生まれる。他領の商人向けにはきちんと宿泊施設を併設した宿場町を販売拠点に近い処に用意し、領内で輸送する者たち向けは廉価で利用できる施設にするという施策が通達され、各ギーベと彼らに仕える文官や領主の作った白い建物に匹敵する公道の街道警備をする武官達は公共事業と産業育成の計画書立案に頭を悩ませる。

 利益を得たいなら、貴族はコネや賄賂の額ではなく、企画力や運営能力で己の力を示せとフェルディナンドはアレキサンドリアのギーベに求められる能力を明確に示した。

図書館と研究所を中心に放射線状に伸びる街道は、すべての起点がアレキサンドリア領都の図書館と研究所に集約されることを示す。

 街も馬車道、歩道、側溝、街路樹、延焼防止のための公園に貯水槽など、ローゼマインの思いつく用途が詰め込まれ、他領では見ない独特の景観となった。

 街道だけでなく、河や海に近い場所では堤や護岸工事に植樹の計画を求められ、都市整備担当になった文官達は平民と一緒に測量から学ぶのが必須になった。

 縮尺がいい加減な図面では、フェルディナンドから再提出と突き返され、予算の承認がおりないからだ。

『麗しきアレキサンドリア 花は咲き乱れ 鳥は歌う』吟遊詩人たちがアレキサンドリアの春を称える歌があちこちで聞かれるようになるのに、さほどの時間はかからなかった。

 領都を目にする者たちは美しい街並みにアーレンスバッハではなく、『新領アレキサンドリア』を実感し、目新しい商品に驚愕を隠せない。

 何よりも道行く平民たちの陽気さや表情の明るさに、新領の勢いを感じるのだ。

 そして、貴族院のアレキサンドリアも、従来の内装とは大きく違えて新しい領を示すものに変え、概ね好評だった。

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「今年もよろしくお願いいたします。グンドルフ先生」

「こちらこそ、ローゼマイン様。それともアウブ・アレキサンドリアとお呼びした方がよろしいですかな?」

「ここでは一介の学生にすぎませんわ。肩書に関係なく、一学生として扱っていただきたく存じます」

「正直なところ、領主候補生ではなく、すでにアウブであるあなた様をどう扱うか、教師達も困惑しておるのですよ」

 本当のところは、グルトリスハイトをもたらし、ツェントが名捧げをした女神の化身の位置づけに困ったのだが、ローゼマイン本人は去年と変わらず気安い態度と朗らかな笑みを浮かべている。

「確かに、アレキサンドリは課題が山積していて、フェルディナンド様の負担が大きすぎますから、私も領地でお手伝いがしたいのですけど、貴族院を卒業しないことには領主どころか貴族として認めてもらえないのですもの。それにわたくし自身、己の無知さや未熟さは自覚しておりますから、未熟なアウブとして勉学に励みたいと存じます。フラウレルム先生のような嫌がらせは困りますけど、試験は公平に評価してくださいませ。アウブであることをたてに評価に手心をくわえてもらったりしたら、わたくしフェルディナンド様に叱られます」

 神々に呼ばれて出席が足りなくなるのだけは心配ですけど、とローゼマインが笑えばグンドルフも笑みを浮かべた。

 あのフェルディナンドが手塩にかけて育てたのだ。点数が足りないなどそんな教育はしていないと怒る姿が目に浮かぶ。

「では、試験内容にかんする優遇はいたしませんが、受講に関する相談には応じるということでよろしいか?」

「ええ、十分です。グンドルフ先生」

「そうそう、今年はドレヴァンヒェルと共同研究などいかがですかな?アドルフィーネ様もアレキサンドリアを手本に研究都市を目指すとおっしゃっておりますが、ドレヴァンヒェルもアレキサンドリアと友好関係を築きたいと願っております」

「お誘いいただきありがたく存じます。去年は落ち着きませんでしたから、他領との共同研究は難しかったのですけど、今年は是非やらせていただきたいと思っております」

「ほう」

 駄目で元々と申し入れをしてみたら、諾の返事がかえってきて、グンドルフは驚く。

「それでは、どのような研究を考えておられますかな?」

「これです」

 ドンとローゼマインが机の上に置いたのは、フェルディナンドが以前作成した映像を記録する魔術具だった。

「フェルディナンド様が作成された映像を記録する魔術具なのですが、恐ろしく魔力を消費するので、上級の文官ぐらいしか取り扱えないのです。そこで、せめて中級の文官にも扱えるように省力化を考えたいと思っているのですが、ドレヴァンヒェルにはこの映像記録を別に保存する部分を作っていただけたら。出来れば音声も追加してもらえればと思っております」

「映像を保存ですか?」

「ええ、この位の大きさで保存する『カートリッジ』か『ディスク』のようなものを交換すれば、後で見る事ができるようにしたいのです。記録する機能と記録を保存する部分を分けることで、前に記録した映像を消さずにすみます」

 映像で記録する魔術具はダンケルフェルガーにもあったが、こちらは学生時代のフェルディナンドが豊富な魔力と素材を使って力業で作成したものなので、燃費が悪い上、一回ごとに上書きされてしまうので、前の映像を残しておけないのだ。

「なるほど。ですがどうしてこれを改良しようと?」

「お恥ずかしい話ですが、アレキサンドリはまだ人手が足りません。徴税官を派遣するにしても個人の認識や表現にバラツキがあって、収穫高を正確にとらえきれないのです。今まで不作だった土地の者がみれば十分豊作に見えても、見慣れれば普通になります。意図せずとも、個人差が生じてしまうので、映像記録と書面での報告をあわせることで、文官達の意識の標準化と情報の共有をはかれればと思っております。画像だけではなく音声もあわせて記録できれば、情報の改ざん防止になるかと」

「さすがはアウブというべきでしょうか。視点がすでに学生のものではありませんな」

「ありがとう存じます」

 頬に手を当てて微笑むローゼマインだが、本当のところは今のままだと貴族院の図書館の写本が間に合わないと思ったからだ。

 ここにコピー機はない。だが、フェルディナンドが作った録画機能の魔術具がある。これでページをかたっぱしから録画すれば良いじゃないかと思ったのだが外部接続の『ディスク』や『メモリー』に保存できないので容量が足りなくなると上書きになって前のデータが消えてしまうし、魔力消費が馬鹿みたいに多いから、ローゼマイン以外に動かせない。

 改良しないと使えないのだが、研究好きなドレヴァンヒェルを誘えば、ライムントの負担も小さくなるし、他領との交流という名目もたつ。徴税や司法の根拠資料としても使えると言えば、建前としては完璧、とローゼマインはグッと握りこぶしを作った。

「こちらの資料はフェルディナンド様がこの魔術具を作られた時に書かれた覚書です。ドレヴァンヒェルが共同研究に参加して下さるなら、この資料をお渡しいたします」

「よろしいのですかな?」

 暗にエーレンフェストの時のように、うちが研究成果を独占状態になってもと、グンドルフが笑うのに、ローゼマインも微笑む。

「うちの生徒達を鍛えていただければ助かります。今鍛えておかなければ、卒業すればフェルディナンド様が控えているのです。彼に使えないと判断されれば、わたくしの側近は元エーレンフェストの者ばかりになってしまにいますもの」

 どうにも危機感が足りない気がする学生達に対して、手っ取り早く認識を改めさせるとともに、改良にかかる時間を短縮させたい。

 中途半端な大領地という矜持はいらない。ディートリンデに仕えることを避けるために、あえて有能でなくても良いとしてきた家族のせいで、自分はやれば出来るのだと、変に自分の能力に自信がある輩もいる。

 このあたりで、その性根を叩き直さないと、フェルディナンドに使い物にならぬと判断されれば、廃棄処分されかねない。

『やってみせ、言って聞かせてさせてみて、ほめてやらねば人は動かじ』『話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず』『やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず』あちら世界で有名な言葉をフェルディナンドとその側近に贈り、なんでも自分でやらず、ちゃんと手足となる部下を育てるように言い聞かせているのだが、何分優秀すぎるせいで自分が処理するほうが早いと抱え込む傾向がある。神殿で働くフランとザームが部下の教育は一番向いているので、神殿を新人教育研修の場にするほうが無難だろうかと思っているぐらいだ。

 フェルディナンドやハルトムート、エックハルトは出来て当然と、誉める言葉が圧倒的に足りないので、誉める担当の者と組ませた方が効率が良いのだ。

 今回の映像記録機の改良に関しては、改良品が完成するならドレヴァンヒェルに功績をもっていかれてもさほど気にならない。

 どちらかと言えば学生の後ろにいる大人達への撒き餌だ。

 生態調査と合わせて養殖の研究もする魔魚研究所は水族館の併設、品種改良や紙・食料研究のための魔木研究所は植物園と温室、個体数と生態調査の魔獣研究所はサファリパークの併設。研究所は娯楽施設と合わせることで、運営費用と研究費の一部を賄いたいと考えている。

 そうなると、研究員と職員が足りないのだ。知のドレヴァンヒェルなら、研究大好きな研究バカの十人や二十人はいるだろう。そのあたりの研究ができれば領地に拘らない人間を釣れればと思っている。

 貴族院時代のフェルディナンドと親交のあった者達は、フェルディナンドの才を認めていた者が多く、薬や魔道具を高値で売りつけられて苦い顔はしても侮る者は少なかったと聞く。

 その世代が実務の中心の地位につく頃合いのドレヴァンヒェルは、アレキサンドリアにとっても対処がしやすいので、あまりあからさまな人材の引き抜きはかけぬようにと釘を刺されているが、フェルディナンドの研究所で、潤沢な研究費で研究がし放題となれば、確実に釣れる相手に心当たりがあるとユストクスは自信がありげに微笑んだので、交渉は任せることにした。

 実際、グンドルフもフェルディナンドの覚書に意識が向いている。

 結論までをまとめた論文ではなく、フェルディナンドが納得してしまえば途中で考察が途切れてしまう覚書だ。知のドレヴァンヒェルなら、検証実験の一つもしたかろう。

 元王族ということで、今は上位のブルーメフェルトとコリンツダウムだが、すぐに順位を落とすとフェルディナンドは見ている。

 エーレンフェストに順位を抜かれ、ローゼマインに反感と敵対心を持つインメルディンクは元王族側につくだろうが、放置で良い。目先の利益に惑わされる愚か者など、時流が変わればどうとでも転ぶとフェルディナンドは薄く笑った。

 気を付けなくてはいけないのはドレヴァンヒェルとディッター狂いのダンケルフェルガーだと。

 クラッセンブルグはエグランティーヌがツェントになったものの、中央は大きく領地を削られ、神事の復活と魔力供給がツェントの最重要事項に変更され、ダンケルフェルガーの下位が確定したため、以前のような便宜を期待できなくなった不満はあるだろうが、エグランティーヌが中継ぎであり、自身でグルトリスハイトを得たのではなく、ローゼマインから授けられた受託者の立場であることも理解しているだろう。ローゼマインがその気になれば、エグランティーヌ以外の者にグルトリスハイトを授けてツェントを変更することが可能なのだから、エグランティーヌの娘にツェントとして立つのが不可能とわかるまではあからさまに敵対することはないと踏んでいる。

 もっとも、元下位領地のエーレンフェストの領主候補生に配慮しなければならない立場というのは、かなり業腹だろうがそれを取り繕う程度の自制心はあるだろう。

 不満が隠せない程度の器量であれば、嵌めることはたやすいとフェルディナンドは嗤う。

「ローゼマイン、自分が女神の化身であり、大領地のアウブであることを自覚しなさい。そなたが誰かを守ろうと発する一言が周囲に与える影響を考えてから口にしなさい。守るつもりが、かえって誰も救えぬ状況になるかもしれぬ。助けられた者が逆にそなたを恨むかもしれぬ。何が大切なのか、優先順位をつけてから、行動しなさい」

 助けたいと思うなら、その場限りではなく、後々まで責任を負う覚悟で助けろと、神殿時代から繰り返したフェルディナンドの言葉は、ローゼマインがその手に握る名捧げの石の重みと一緒に改めて刻まれた。

 エーレンフェスト時代、新しい商品を次々と考えたが、生産供給が間に合わなくて取引高を増やしてほしいという他領の要望に応えることができず、ずいぶんと周囲の不満と反感を買った。

 だから、アレキサンドリアではある程度の在庫と生産体制、流通を見越して揃えてから仕掛けることにしている。

 唯一外国との接点であったというアドバンテージはなくなり、他領で国境門が開かれる可能性は高い。

 加工技術を高めて加工生産を中核におき、他領とは産業と商売でつながる商業圏をつくることでアレキサンドリアの影響と立場を強化する方針でフェルディナンドは動いている。

 ローゼマインの悲願ともいえる図書館都市を堅実に運営するためにも、人とモノと金が集まる仕組みを確立させる必要があると言われれば、ローゼマインは大きく頷いた。

 今の図書館にある本は、ほとんどがフェルディナンドの蔵書だったものであり、一番増えているのもフェルディナンドの研究所がらみの研究報告書だ。

 本が増えるのは嬉しいが偏り過ぎているのが不満で、各ギーベや貴族家が所有している歴史書や口伝、古書など、ジャンルにかかわらず写本して納めるように通達を出し、貴族院でも生徒には他領の生徒も含めて報酬を約束し写本を奨励している。

 ローゼマインの暴走をうむこともあるが、大人しく部屋にこもっていてほしいなら、大量の本を与えておけば良いと理解しているフェルディナンドは、古語の翻訳や古典をさかのぼっての比較やらという課題をローゼマインに与えるようにしていた。

 領地対抗戦では、各領のアウブとその一族に加えて貴族たちが例年以上に参加した。

 ディッターも従来の宝盗りに戻されたが、これはやはりダンケルフェルガーが強い。それでもローゼマインの側近であるエーレンフェストからの移籍組は神具を出すことができるアドバンテージを最大限に使い、フェルディナンドから習った魔道具や回復薬、お守りの使い分けなどで敵を倒すのではなく、宝を掠め取る作戦で辛勝の一位。

 やり方が卑怯と顔を顰める者もいたが、ダンケルフェルガーはさすがフェルディナンド様の薫陶を受けていると騒ぐ。

 もてなす席の方は例年よりも多くの客が現れる。

 席がまったく足りず、お持ち帰り用に酒に漬け込んだドライフルーツを使ったパウンドケーキを配り、テーブル席には『アフタヌーン・ティーセット』を用意する。

 側仕え達見習いには美味しいお茶をいれるだけでなく、どれだけ忙しくてもその所作も美しく見えなくてはいけないと、ラザファムに最終確認をさせ、客に忙しないと感じさせるもてなしは下の下だと教え込んだ。

 蒸した魚の油漬け、塊肉をじっくり焼いたローストビーフもどきは野菜と一緒に挟み、サンドイッチ定番の刻んだゆで卵のマヨネーズあえ。

 カスタードクリームとフルーツのタルト二種、口金で絞ったクッキー、プレーンなものと木の実を入れて焼いたスコーンにはジャムと蜂蜜、クロテッドクリームもどきを添える。

 エーレンフェスト時代のカトルカールなど味は良いけれど見た目が地味と言われていた菓子に比べれば、フルーツを飾り切りして盛り付けたこちらは数段華やかな印象だ。

 席が用意出来ない人に手土産として配ったパウンドケーキは、ブランデーケーキをイメージして酒を利かせて寝かせたもので、生地がしっとりとして、カトルカールと食感や味が随分と違うので印象が異なり、二番煎じと言われることもなく、酒の香りと味が強い分、大人受けする菓子に仕上がり、甘いものが苦手な男性陣に好評だった。

 成績のほうでは、ローゼマインが順当に最優秀をとった。レティーツィアは祈るように両手を組んで発表を待ち、最優秀で名を呼ばれると側近の者達と喜び合っていた。一年の内容で満点が取れないなど許されないという圧力が凄かったので、これで名を呼ばれなかったらフェルディナンドの言葉を思ってどん底だったろう。元アーレンスバッハであるため生徒の数がエーレンフェストよりも多く、上位の優秀者の数はドレヴァンヒェルとほぼ互角。中級以下で負けていることに学生達は蒼褪めているが、即席ならばこんなものだろうとローゼマインは考える。

 フェルディナンドの作った映像保存の魔術具の改良はギリギリで仕上がった。

 今回、今も大量の仕事を抱えているライムントは担当から外し、フェルディナンドから渡された魔法陣の資料を大量に持ち込んで、他の文官見習い達を総動員した。

 特に魔力量からライムントを馬鹿にしていた上級貴族の子弟達には、フェルディナンドが作る上級貴族の魔力量と生半可な知識では扱えない、美しくも複雑で燃費を無視した魔術具を低燃費に改良することがどれだけの難事なのか、いやというほど教え込んだ。

 稼働時間と消費魔力の低減は、棒グラフと折れ線グラフの複合グラフで示し、見てわかりやすい表記を心がける。

そして、さすがは知のドレヴァンヒェル。USBサイズは無理でも、ビデオカセットサイズで映像記録の外付け保存媒体を作ってくれた。

 今のフェルディナンドではなく、学生時代のフェルディナンドの作成した魔術具に手も足も出ませんなど、知を誇るドレヴァンヒェルの者に許されると思っているのかと両親や親族に脅されたドレヴァンヒェルの生徒達は投げ出すことや小手先でごまかすなどできるはずがなく、今まで下級のライムントが行ってきた魔力消費の低減化を馬鹿にしてきた旧アーレンスの者達は、ローゼマインから「下級貴族であるライムントよりも有能なのでしょう?期待していますよ」と言われ、これができなければ貴族院卒業後のアレキサンドリアに文官としてのポストは無いと追い詰められた。

 提供されたのは完成品とレシピでも研究論文でもなく覚書。工程に関しては疑問形やら要確認と書かれ、素材も斜線を引いているのは除外したのだろうが、なぜ除外したのかその理由が書かれていないのだから検証の必要が出てくる。

比較して改良するためにも、まず同じ物を作ろうとするのだが、そのレシピを完成させるのが大変だった。

無駄に潤沢な魔力量と資産をもつローゼマインなら力技の調合で可能なことも、普通の貴族子弟レベルでは材料をそろえるだけで一苦労する。

 最初は互いに警戒しあっていた両陣営の文官見習い達だったが、発表が近づくにつれてそんなことは言っていられなくなり、上級生から下級生まで図書室だけでなく実家にも問い合わせて参考となりそうな資料すべてをひっくり返して検討し、グンドルフの研究室にも連日押しかけて改良に励んだ結果、どうやら魔王フェルディナンドの試練に立ち向かう仲間意識が芽生えたようで、出来上ったときは互いに目の下に隈を作り、泣きながら健闘し称えあっていた。

 研究の主力だった学生達は、完成させると同時に倒れて爆睡していたようだが。

 それほど同年代の頃のフェルディナンドが作った魔道具に発奮させられたらしい、とローゼマインだけが好意的に解釈している。中級の中位で動かせる程度には省力化したが、映像と音声の同時記録のため、連続で記録できる時間は短くなった。ただ、存媒体を交換しながら充電もとい魔力を込められる『バッテリー』を作ればそれも解消できそうだ。完成品を手にしたローゼマインが笑顔で言った『次はバッテリー』のセリフに、アレキサンドリアの文官見習い達は崩れ落ち、「これ以上は許してください」「もう無理です」「ライムント、私が悪かった。二度とその方を軽んじたりせぬ」と一時収拾がつかない状況になってローゼマインを唖然とさせたが、フルーツをふんだに使ったミルクレープで彼らの努力と成果を労った。

 合同研究の発表の場では、両生徒ともやり遂げたという達成感に満ちた顔で、堂々と映像記録の魔術具に関するそれぞれの発表を行っていた。

 ドレヴァンヒェル側の代表でもあるオルトヴィーンは、かなり精神的な疲労感を感じていた。もともと領主候補生は自分自身が研究をするのではなく、周囲を取りまとめるのが役目だと思ってきたが、今回は彼も資料集めや分析に参加していた。

そして、材料に金粉を使うことや時間短縮のための重ね掛けを当たり前と考えているローゼマインやフェルディナンドに自身との差を思い知る。

 だが、グンドルフに彼らのような特別な作成者しか使えない魔道具ではなく、他の者でも使えるように改良することは重要だと説かれ、試行錯誤で研究することの楽しさと奥深さを再認識した。

「今回ほどフェルディナンド様が同年代でなくてよかったと思ったことはありません。彼の人が目の前にいたら、自信を喪失し心が折れています」

 素直で未熟な点もあるヴィルフリートであれば、ライバルと認識して競い合うことも楽しめるが、これほどの差があれば、嫉妬することすら難しい。一勝できずとも挑戦し続けたというダンケルフェルガーに尊敬の念さえ抱く。

「そうですなぁ、当時『ドレヴァンヒェルの知とはなんぞや!』と心を折られた生徒は多かったですな」

 フェルディナンドが作る回復薬に魔道具、ドレヴァンヒェルの生徒達は力量の差に打ちのめされながら、その才能に嫉妬しつつもレシピや現物を欲し、自身でも同じような物を作ろうと躍起になった。

 だから、貴族院を卒業後神殿に入ったフェルディナンドの才を惜しんだのはダンケルフェルガーだけではない。表だってはともかく、彼のアーレンスバッハ行きを賛成したのはドレヴァンヒェルもだ。それだけに、アーレンスバッハでのフェルディナンドの待遇を知って申し訳ないとも思ったし、アドルフィーネの離婚にローゼマインが口添えしてくれたことに感謝もしていた。

 コリンツダウムのアウブになったジギスヴァルトとの婚姻継続のままでは、ドレヴァンヒェルも沈むというのが、アドルフィーネと彼女からの報告を聞いたアウブと側近の一致した意見だったからだ。

現状、品質の低いシュタープを取得したオルトヴィーンが次期アウブとなるのは厳しい。ただ、中継ぎアウブとなるのが見えているシャルロッテの婿に出すのも惜しい。

 可能ならば、ローゼマインも可愛がっているというレティーツィアを第一夫人に迎えて、ギーベにというのが最良だが、まだ時間はある。

 とりあえず、ドレヴァンヒェルはアレキサンドリアと良好な関係を望んでいた。

エーレンフェストは今年も神事にかかわる合同研究を他領から申し込まれて、複数の領地による合同神事の研究発表だった。

 これはどちらかと言えば自身の領地の採取場の癒しを望んでのことのようで、下位の小領地には切実だったのだろうとわかるが、内容に斬新さはない。

 神事の重要性に関しては、改めて小冊子にまとめて領主会議で配布する予定だったので、ローゼマインはエーレンフェストがまた頼まれて嫌と言えない状況になることを懸念していた。

 研究発表の方はドレヴァンヒェルと合わせて同率一位、客の対応は追いつかなくてそこは減点となったが、個々の対応や手土産のフォロー、アフタヌーン・ティーセットという形式の披露は高評価を得ることができ、総合でアレキサンドリアはなんとか一位を確保した。

 魔力の奉納は十分行っているので、農作物の収穫高や漁獲高はアーレンスバッハ時代と比べものにはならない。

ただし、他領でも積極的に神事を取り入れはじめた領地は生産高が増えている。

これからは、貴族の数が増えるのと合わせて、積極的に神事を行うか否かで差がつきはじめるだろうと予想できた。

アーレンスバッハの犯した罪との相殺という建前で、元王族の順位と格を保つ為にアレキサンドリアの順位は据え置きだったが、フェルディナンドにすれば問題にしていない。

 自動織機が主力の『工場』が稼働すれば、染色や柄の多様性が当たり前となる時代をアレキサンドリアが作る。

確かに砂糖の生産にはもうしばらく時間がかかるが、海に面したアレキサンドリアは塩の生産ができる。海塩に乾燥させた香草をくわえたハーブ・ソルトの販売のめどもたった。 これは、回復薬の素材の中でも香りが良いものを選んで作るのだが、採集地を祝福で回復させれば取りつくす心配がないという理由で素材の草を用いるローゼマインの発想に、エーレンフェスト組はいつものことという顔だったが、旧アーレンスバッハの者達は愕然としていた。

香辛料も従来の大量に使用するものから、少量でのレシピへと移行しつつある。

 このあたりの魚料理はこれから懇親のお茶会で広める予定だ。

水産加工も瓶詰加工の目途がたてば、時を止める魔術具を用いずとも平民が扱える長期保存食が生まれ、個人相手など一部の限定的な取引規模ではなく、他領との大規模な商取引になる。

 アレキサンドリアを周辺のアウブ達が無視できなくなるのはすぐだ。

元王族の権威だけで産業がおこせる訳でもなければ、地力が増すわけでもないことを教えてやろう、とフェルディナンドは思っていたが、ローゼマインは歴史があるということは一つの『ブランド』に成り得ると言った。

 服飾などは、うまくエグランティーヌが愛用していると売り出せないかと。

流行は上から流すのが良いと教わったのだと、淡い色合いならばエグランティーヌが良い広告塔になるとローゼマインが笑う。

 以前は『お友達』だと言っていたが、さすがにあの扱いでは『取引相手』と認識を改めたらしい。

 本狂いで誰彼構わず慈悲を与えるところは変わらないが、ベンノに鍛えられたせいで『商談相手』であれば、心配するほどでもないと、経験則からフェルディナンドは理解していた。

 金色の瞳に夜色の髪、成長途中のたおやかな美しさは、より一層衆目を集めているのに、本人ばかりが自覚がない。

だから、彼女が身に着ける衣装には季節の貴色にフェルディナンドの水色をアクセントにして、神々の介入も退けるようにと虹色魔石を使っての防御の魔法陣の開発と改良には手を抜かず、ローゼマインがあきれようと改良するたびに新しいお守りを贈り続けている。

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 領主会議では、ローゼマインが貴族院で女神に呼び出されたことに対する探りもあったが、概ね現状の確認で、アレキサンドリアの新しい事業に関しても試作中と流した。

 女性アウブであるローゼマインはツェントであるエグランティーヌ主催の領主夫人たちを招いたお茶会に参加することになり、一応虹色魔石の簪を魔石10石仕様の二本にして送り出した。

 フェルディナンドはドレヴァンヒェル、ダンケルフェルガー、クラッセンブルグのアウブ達とブルーメフェルトのアウブとなったトラオクヴァールとコリンツダウムのアウブとなったジギスヴァルトを招いてのお茶会という名の探り合だった。

 アウブ達の表情ははっきりと陰陽に分かれている。

トラオクヴァールの第一夫人の出身領であるギレッセンマイアーのアウブはもともと野心家という訳ではない。王族と距離をおくために第五王子のトラオクヴァールと婚姻させたのが、兄王達がつぶし合い、ダンケルフェルガーの後押しでツェントになった経過で、マグダレーナが第三夫人として控えているものの、第一夫人側も随分と気を遣う立場だった。そこに今回はランツェナーベを引き入れ、中央騎士団の造反を招いたラオブルートの出身地であった責も問われている。

この面子での茶会に呼ぶのはさすがに気の毒かと配慮した結果、呼ばなかった。

まあ、基本中立よりで、明確に敵に回ることはしないだろうという目算もあってのことだが。

明確な上座のない円卓に6人が座る。

これも魔木から採取したストロベリーブラウンの塗装と虹色魔石を貼ったテーブルで、アウブ達もわずかに目を見開く。

貴重な虹色魔石を普段使いする家具の装飾品扱とは、どれだけ魔力が豊富なのかと。

改良されたスプリングと柔らかくなめした皮を張った椅子は、他領のアウブが思わず立ち上がってそのクッション性を確かめるほど。

そしてワゴンで運ばれてきたのは見慣れぬパンが八種類。

「お好みの物をお好きなだけ」

 そう言ってフェルディナンドが選んだのは二種類。

 ダンケルフェルガーは全種類を選び、他のアウブ達は同じ物を選ぶ。

 手で千切ることなく、直接口に持っていき食するフェルディナンドの様子に驚くが、一口食べてからどうぞと言われ、手で千切ろうとして驚いた。

 柔らかい。エーレンフェストが用意したパンも柔らかかったが、こちらはもっと柔らかい。その上、パサパサと生地が零れていく。

「我がアウブの考案した新作『フワフワサクサクパン』、では名前が長いので、『デニッシュ』という名前です」

「なんと不思議な」

「パイ?いや違うな」

「バターの風味がきいている」

「……」

「……」

 カスタードクリームとフルーツ、ジャムを使ったスイーツ系デニッシュと、ひき肉、ゆで卵、鶏肉とスライスした野菜、それぞれの具材にかかっているのはホワイトソースとチーズの惣菜系デニッシュ、あとは定番のクロワッサンとサーモンを思わせる味の白身魚のスライスに柑橘系のしぼり汁をかけたドレッシングと野菜を挟み込んだクロワッサンサンド。大きさが小ぶりなのは種類を楽しめるようにという配慮だ。

「まだ試行錯誤しておりますので、ぜひ感想をお聞かせ下さい」

 フェルディナンドは謙遜してみせながら、自信をにじませて噛めば鳥肉と野菜の旨みを感じる惣菜デニッシュを堪能しつつお茶を飲む。

「エーレンフェストのパンとは随分と、風味も食感も違う」

「ああ、いささか物足りないような気もするが、独特の風味。菓子にも食事にもなるとは」

「指につくのがいささか煩わしいが、このサクサクは何とも楽しい」

 一つ食せば、全種類試したくなるもので、結局皆が追加で所望し、全種類を食べた。

 捩じったパイに粉チーズと香辛料を振りかけたスティックパイを差し出し、このサクサクとしたデニッシュはパイとは違うと暗に示す。

「お気に召していただけたようで何より。アウブも新しく召し抱えた料理人も喜びましょう」

「このレシピは?」

「もう少し洗練させてから、販売する予定です」

「焦らしてくれる!」

「リンシャンとエーレンフェストの料理のレシピは公開されたが、まだまだお持ちということか」

「アウブ・アレキサンドリアは魚がお好きなので、新しいレシピはどんどん増えますよ」

「うらやましいことだ」

 普通は部下の意見を集約する立場のアウブだが、ローゼマインは自分が美味しいものを食べるためなら、新しい産業を興すこともいとわない。

 特に今回のデニッシュは何とかこの領主会議に間に合わせたものだ。

 きっかけは、神殿にいたゲオルギーネに名捧げをした一族の生き残りの者が、料理人になりたいとフランに申し出たことによる。

 家格は中級や下級で、ランツェナーベの者を引き入れたり、べルケシュトックを身内に持ちエーレンフェストを強襲した親族をもつ者は、貴族としての将来はないと思っていた。ただ、幼い弟妹や世話をしなくてはいけない親族がいる者の中に、貴族以外の生き方を選んだ者達がいた。

 怯えた顔をしていた弟妹が、神殿の食事を食べておいしいと笑顔を見せた。

 だから、裏切り者の身内として蔑まれながら貴族として生きるより、料理人になりたいと。

 それを聞いてローゼマインは素直に喜んだ。エラやフーゴは今までどおりローゼマインやフェルディナンドが好む料理を作ってほしい。だが、他領向け、貴族向けの料理も考えていたので、やる気があるなら歓迎すると。

 簡単に言えば、製菓やパンに必須な業務用ミキサーにハンドミキサー、ポタージュやソースのためのジューサー、スライサーにフードプロセッサー、サーモスタット機能つきのオーブン、魔力が必要な魔道具で調理家電を作りたかったのだ。

 バターが溶けないよう、肌寒いと感じる低温の製菓・パンの作業室まで作ったのは、一定レベルのパイやデニッシュをある程度量産するためだ。

 初心者に近い彼らのため、魔道具で省ける手間は省き、計量カップや天秤ばかり等を揃えて味のばらつきをなくした。

 そして、最終の採用試験がこのデニッシュパンの完成だった。

 バターを混ぜ込むのではなく、生地を折り込んで層を作るという初めて聞く製法に四苦八苦しながら、サクサクでフワフワでしっとりという、誰も食べたことのないパンに挑んだ。

 温度管理に水分調整、発酵時間、木札にメモを細かくとりながら、彼らは毎日パンを焼いた。

 フーゴやエラでは出来ない作業工程に、彼等を選んだ理由が腑に落ちた者が納得し、彼等を受け入れた。

 ローゼマインが成人する年を見越して他領のアウブや貴族を対象とする『迎賓館』を目指す最高級のレストラン『グランメゾン』のための厨房スタッフとして教育中だ。

 シート状にしたバターが溶けてだれないように冷やした生地で包んで素早く、かつ均一に生地を伸ばしながら折りたたんでは伸ばすことを繰り返し、高温のオーブンで焼くと、水分の蒸発で層になる。

 バターの扱い、生地とオーブンの温度が大きな決め手となるので、材料がわかったぐらいでは絶対にできないと、ローゼマインが拘りぬいたクロワッサン。これが形になってから派生のデニッシュ系各種を職人達がアイデアをだして作った。

 味に合格が出たので、現在クロワッサン形成機を依頼されている。

 人の手だと三つ折り3回が最適、魔道具で折り込むなら200層ぐらいいけるのではと、元貴族であることを生かせと言われ、調理だけでなく魔道具作成のための調合にも励んでいる。

 魔術具を扱える貴族だから作れるレシピを与えられたことで、ローゼマインがわたくしの料理人は皆優秀なのですと自慢するから、貴族が落ちぶれたものだと、馬鹿にしていた者達も口を噤んだ。

 食べる人が笑顔になるように美味しい料理を作る、素晴らしい仕事ではないかと、ローゼマインが笑う。

 貴族の立場にすがり犯罪者の身内と蔑まれるのではなく、『グランメゾン』の料理人と称賛される可能性を選んだ者達に迷いはない。

 このパンは、そんな彼らの覚悟を示す。

 さて、元王族の方々は、アウブとして新たに生き直す覚悟があるのかと、フェルディナンドは薄く笑った。

 ゲオルギーネに組していた一族を料理人に雇うとは、なんと剛毅な、と感嘆する者。

 さすがはメスティオノーラの化身、その知は涸れぬ泉のようだと驚嘆する者。

 今は学生の身なのにこれでは、成人されればどれほど産業を発展せるか、末恐ろしいと微笑む者。

 そのような者が作った物を我らに出すとは、と顔を顰める者。

 アレキサンドリアがうらやましいと嘆息するもの、それぞれの感想にフェルディナンドが社交用の笑みを浮かべてみせる。

 神々の都合で結ばれてしまったとはいえ、対外的にはいまだ星結びが終わっていないフェルディナンドは公式にはエーレンフェストの領主候補生で、格で言えば一番低い。

 それでも、実質的アレキサンドリアの采配を行う者と認識しているアウブは城代家宰の役職を正しく理解して敬意をはらい、自尊心の高い者はフェルディナンドを下に置こうとする。

 多分、恥をかかせようと請われることもあるだろうと、ローゼマインが用意した新曲は、懸想を揶揄されぬようにと『アムール河の流れ』の歌詞置き換え版だ。

 こちらでは踊る円舞曲や三拍子がないので聞きなれぬ拍子であり、転調もする。その上、フェルディナンド編曲で超絶技巧曲となった。

≪よろこびの歌声は川面をわたり はるかな野辺に 幸をつたえる≫と繁栄するアレキサンドリアと≪ふるさとの平和を守れ≫とランツェナーベの侵攻から守る意志を白い波が逆巻く激流で旧弊を押し流す情景に込めた歌詞は、今までの神をたたえる歌詞とは一線を画す。

 エグランティーヌに請われて返歌ということでローゼマインが歌ったのは、クラッシックから編曲された『木星』。キーが苦しかったので、そこは合わせて編曲したが、傷ついた者に寄り添う歌詞のつもりが、呼ばれれば側に行くと歌うから、フェルディナンドを救うためアーレンスバッハの礎を奪いに駆け付けたことを指すと解釈されて、こちらは完全に懸想歌と認識された。

 突然の新曲演奏披露で恥をかかせるつもりが、二人の仲睦まじい姿を見せつけ、フェルディナンドの技巧と美声に女性達が溜息もらして聞き入る結果になっただけとなった。

 シュタープを封じられたヒルデブランドが、いまだにローゼマインに未練を残してうろついていると報告を受けている。

その視界にはどんな幕がかかっているのか、ヒルデブランドにとってローゼマインは虚弱でありながら慈悲深く、育てられた恩から断れぬフェルディナンドとの婚姻を強いられながら己の不遇にじっと耐えている聖女だそうで、どうやらエルヴィーラの書いた物語の主人公に重ねて王子である自分が救い出すのだと、自分と結ばれるのだと夢想している気配だと聞いて呆れるしかなかった。

 ローゼマインはあの年頃ならば魔王に立ち向かう勇者に憧れるものですと言って、そのうち誤解も溶けるでしょうと微笑ましいと考えているようで、それを聞かされた周囲の視線はヒルデブランドに対する苛立ちから哀れみへと移った。

自分がローゼマインを救うのだと、救われたローゼマインは自分のことを伴侶として受け入れてくれるなどと、砂糖まみれの夢想はどこから来たとフェルディナンドだけでなく、少しでもローゼマインとその環境を知っている者からすれば呆れる未来像だ。

 フェルディナンドにすればレティーツィアとの婚姻も認める気はないので、レティーツィアとの交流も疎かになってくれればよいと思っている。

「ゲヴィンネンは皆様やり込んでおられるでしょうし、時間もかかりますから『リバーシ』はいかがです?」

「なんだ、その粗末な板は」

顔を顰めたのはジギスヴァルトだけで、ダンケルフェルガーとドレヴァンヒェルは楽し気に、クラッセンブルグとトラオクヴァールは興味深げに8×8マスの板を見た。

「このように、白と黒交互に石を打ち、自陣の石で相手の石を縦・横・斜めで挟めば自陣の色に変わる。相手の石を返すことができないマスに自陣の石を置くことはできず、置けなければ相手に打つ手が変わる、両者打てるマスがなくなった時、石が多い方が勝ちというとても単純な盤遊戯です」

 パチパチと石をひっくり返してみせてから、盤を3つ用意した。

「これは、孤児院を救済するために、ローゼマイン工房で孤児達に作らせた最初の盤遊戯ですよ」

「ほう、紙ではないのか?」

「ええ、紙は道具がいろいろと必要なので、ただ恵みを待つだけだった幼い者達では作れなかった。それでも、早急に資金を稼がなくては飢える者を救えないと、ローゼマイン様が作らせたのですよ」

 下書きの線を引き、板に溝を削り、慎重にマスを引くインクをのせた。石はささくれが刺さらないように丁寧に磨いて黒と白に塗り分けた。

 今では盤に彫刻をしたものや、携帯できるように折りたためる物など種類も増えたが、ローゼマイン工房で一番最初に作られた『リバーシ』はどこまでも簡素だ。

「孤児院に戻された灰色もおりましたが、見捨てられたように放置された幼子も多かった。その小さな手でできる仕事は限られている。だからこそ、孤児院の子供でもできる仕事を与えて、青色の下げ渡しを待つのではなく、足りない食料を得る手段を与えたのですよ。金がないなら稼げばよい、売る物が無いなら作ればよい、洗礼式も迎えぬ幼子が孤児院長になって孤児院を救いたいと訴えてきたときには驚きましたが」

 なんの特産品も無いから、まだ領内を掌握できていないから、そんな言い訳がいつまでも通用すると思うなと、フェルディナンドは薄く笑みを浮かべる。

「何もないから、やっても無駄と諦めるのは怠惰の言い訳にすぎない。この『粗末な盤遊戯』はそのことを教えてくれます」

 ただの板も加工すれば売り物になる。売る物がないというのは気づかないだけだと。

「どうぞ」

 先手を譲られたジギスヴァルトは顔を顰めて白い石を打った。

「アレキサンドリアはいかがですか」

「アウブが未成年ですので、今は中を固めるのに注力しております」

「それは大変ですね。まだまだアーレンスバッハを懐かしむ者もおりましょう」

「今のアレキサンドリアに過去を懐かしむほど余裕のある者はおりませんよ」

 ジギスヴァルトが中央から連れていった文官は少なくはない。

 それでも、中領地を支えるには人数が足りない。もともと中央で働いていた者達が、すぐにギーベとして領民と連携をとれるわけでもなければ、予算を使うばかりだった役人が利益ありきの経営の発想にすぐさま切り替えられるはずもない。

 彼等の収支報告は数字を合わせるばかりで、改善の案は出ない。特産となる商品がないので、麦を育てるだけではこれ以上の収入は見込めないというばかりだ。

 可もなく不可もなし、それがコリンツダウムの状況で、農業の生産高はこれから他領も改善される。そうなれば中領地の中でも、埋没するだろう。

 アレキサンドリアの混乱はもうしばらくすれば終息する。新しい産業をおこす基盤が整えば、不正に関わってきた者達の首も挿げ替える。

 上級ではなく、現場で働く下級、中級の者達から切り崩しにかかり、チャンスを掴もうとする者達はフェルディナンドの支持に回った。

 ローゼマインが卒業するころには、こちらの体制が整う。

 パチパチと音をたてて石がひっくり返される。

中盤過ぎまで白かった盤は、今ではほとんどが真っ黒だ。

 あっという間だった。角を取られ、横列から斜めへと色が変わっていく。

 盤にうつところがなくなると、白は5枚だけになっていた。

「よろしければ差し上げますよ、ジギスヴァルト様。私はこの盤遊戯を見るたび、新しい視点や発想を得ますので」

 ただの板も、加工すれば商品となる。小さな手が丸い石を磨いている様を見ると、私の手でもできることがあると思えるので。

 キラキラとした笑顔のフェルディナンドからは「無能は大人しくしていろ」という声が聞こえるようで、ジギスヴァルトは悔しさを拳で握りつぶし、「ありがとうございます。ですが我が領の職人に作らせます」と無理やりの笑顔を浮かべた。

 ドレヴァンヒェルとダンケルフェルガーは8枚差でドレヴァンヒェル、クラッセンブルグとトラオクヴァールは僅差でトラオクヴァールだった。

 もう一度と再挑戦を挑むダンケルフェルガーに総当たりにしようとドレヴァンヒェルが提案し、組み合わせを変えて勝負を始める。

「単純なようでなかなかに奥が深い」

「ご存知でしたか」

「ああ、エーレンフェストから商人が持ち込んだ。ゲヴィンネンと違い魔力がいらぬから、平民の間で大層人気だ」

 そして、多分やったことのないジギスヴァルトを完膚なきまでに叩くとは、相変わらずとアウブ・ダンケルフェルガーが笑う。

「私も初めての勝負でローゼマイン様に完膚なきまでに負かされました」

「そのあと、勝つまで挑む姿が目にうかぶが」

「そこはご想像にお任せします」

「だが、本当に奥深い。白と黒、容易く変わるだけに要を抑えるのが大事、とはな」

 角を取りにいくダンケルフェルガーは、基本的な知識があるとわかる。

「ええ、要さえ押さえれば、あとは簡単に旗色をかえる」

 要は最後に勝てば良い。攻め気のダンケルフェルガーが置きたいところに置かせないフェルディナンドの石。

 ルールを知ってはいても、研究されていない分、フェルディナンドが有利だった。

ドレヴァンヒェルとの勝負はゆっくりと進んだ。

「随分と慣れていらっしゃるようだ」

「そうですね、うちでは入学前の子供たちがこの盤遊戯に夢中ですよ」

 魔力の大小に関係なく、年齢に関係なく、知略だけで勝負できるのと作りが簡単なので、洗礼式がまだな子どもやシュタープを持たぬ子ども達相手に親が教える盤遊戯として人気だ。

「さようですか」

リンシャンを再現しようとしたドレヴァンヒェルならば、知的玩具であるリバーシは楽しいだろう。実際、他領ですぐに類似品が作られるとはローゼマインも予測していたことだ。

「どこに石をおくか、ではなく、どこに相手の石をおかせるか、が重要ですか」

 相手がおく石を誘導する。罠とわからぬように、追い込んでいく。

 互いに手筋を読みながらの緊張感に、フェルディナンドが桃に似たフルーツがのったデニッシュをつまめば、ドレヴァンヒェルは煮詰めたラッフェルがのったデニッシュをつまむ。

「ふむ、やはりローゼマイン様が考案される料理は美味ですな」

「新しく雇い入れた料理人が頑張ってくれていますので」

「なるほど…アドルフィーネもアレキサンドリアを見習った学術都市を目指して努力しております。ローゼマイン様のご厚意には感謝しておりますが、今後とも良きお付き合いを願っております」

「……ローゼマイン様が成人するまでの間であれば、視察と研修という名目で文官の受け入れは可能ですが」

「本当ですか?」

「この春に、魔魚の生態を調べる研究所が建ちました。何分初めての試みなれば、ドレヴァンヒェルの知恵をお借りできれば、こちらも心強い」

「領都に研究所と図書館があると伺っておりますが、それとは別にですか?」

「ええ、アウブは魚をとくに好みますので、前倒しで研究所を建てることになりました」

 ドレヴァンヒェルに海はない。多少の情報が流出しても問題ないと考えてのことかと、希望者を募ったのち、条件を擦り合わせましょうと答えれば、良い返事をお待ちしておりますと笑顔で返される。

 ローゼマインがやらかしたのだ。

 養殖を考えての大型の生け簀だけでなく、水族館をイメージしたせいで、継ぎ目のない強化ガラスの水槽が30ほど。

「えっ?生態を調べて飼育するのですから、水流、水温、水圧をかえた水槽が必要ですよね?海中を再現した主水槽だけでなく、魔魚と普通の魚に分けた方が良いでしょう?」

 一番大きな水槽は、領主城の大広間ほどのサイズがある。魔道具で水流を作り、水温と水圧を変え、排水とろ過、循環の装置を作る。

 この規模での魔道具と、海中の再現にかかる費用、手間、時間に文官達が遠い目をする。

 食べられる魚の調理の普及や、加工の研究もしますよと一生懸命説明するローゼマインに、言いたいことはそこじゃないと、フェルディナンドは蟀谷を叩く。

 どう考えても魔力も人手も足りない。

 こうなったらドレヴァンヒェルの文官を釣り上げるという案を採用しよう。

 研究どころか、海中を再現した施設を稼働させるまでに一年は軽く過ぎると考えての受け入れだった。

 ドレヴァンヒェルの研究好きの文官達は、アレキサンドリアに出向扱いで行けると聞いて、自薦他薦問わず立候補が多数出た。フェルディナンドの研究所が見たい、レシピが知りたいと思ってのことだったが、案内された自分たちが考えていた研究所とは規模も内容も違いすぎるアレキサンドリアの魔魚研究所に度肝を抜かれ、二年が過ぎてもこのままでは帰れないとアレキサンドリアの貴族との婚姻と移籍を選んだ者が二十人ばかり出るが、これはドレヴァンヒェルのアウブの読みが甘かったというよりも、ローゼマインが規格外すぎたということだろう。

 貝の養殖や稚魚の放流など、生態を研究しながら商品となる海産物の研究に大きく貢献し、ドレヴァンヒェルはアレキサンドリアで生産された海産物商品の最初の購入先となる。

 クラッセンブルグとは社交辞令で終始する。

 さして弱くもないが強くもない。貴族院での奉納式を恒例にしようと持ち掛けながら、エーレンフェストが回復薬を用意するのが当然との態度だったり、ポンプなどエーレンフェストで作られた新しい商品の優先権を得ようと上から目線で圧力をかけるような、従って当然というのが透けていたが、さすがに女神の化身の統治するアレキサンドリアに対しての表だって敵対しないということか。

 エグランティーヌが中継ぎツェントとなったのは喜ばしいが、ツェントの権限は大幅に削られて旨みは少ない。

 女神の力でというなら、エグランティーヌの娘が即位する際の箔付けになるというところだろうかとあたりをつける。

貴族院でも、敵愾心は感じないと聞いている。アレキサンドリアが力をつけるまでは、利害関係で手を結ぶことが出来れば上々というところ。

 ラオブルートがうまく煽ったのだろうが、政変で不必要な処分を大量におこなったせいで、政変に直接かかわりのない図書館の司書までも処分し、グルトリスハイトに関する知識の欠落が生まれた。

 この大量処分をクラッセンブルグは支持し、強硬に推し進めた。

 グルトリスハイトもたぬという弱みを抱えたツェントを支えるようで、支持をちらつかせながら影響力を強めようと無理強いをする気配もあった。

 地位が逆転した現在、その点をダンケルフェルガーなどに指摘されるといささか分が悪いというところだろうか。

 少なくとも、今しばらくはエーレンフェストに対したような態度でアレキサンドリアに対することはないだろう。

 ブルーメフェルトの統治に苦労しているトラオクヴァールだが、ツェントを降りて気が楽になったのか、その顔色は悪くない。

 ただ、フェルディナンドに対しては、どこか遠慮がちだ。

 ローゼマインが虚弱で、ツェントの重責は担えないと判断したから、静かに暮らせるように実権のない第三夫人にと言ったのだ。ユルゲンシュミット全体の魔力不足を解消するためには、中央の神殿長として正しい神事のあり方を広めるのが良いと思ったからだ。

 アナスタージウスのローゼマインにグルトリスハイトを取得させたら早急に取り上げろというのも、決して悪意あってのことではなく、統治者には向かないという判断からだった。

 だが、エグランティーヌを貴族院の離宮というランツェナーヴェの姫達が住んでいた場所に住まわせたこと、ツェントを中央の神殿長に据えたこと、これらは王族がローゼマインへの対応をそのまま返されただけだが、怒りが込められていることも察せた。

 どれだけ王族は自身の責務を棚に上げ、未成年であるローゼマインに背負わせる気だったのかと、彼女を愚弄するにも程があると。

 今のフェルディナンドからは、絶対に王族の都合でローゼマインをツェントにはさせないという意思が見える。

「ヒルデブランド様はお元気ですか」

「ああ、恙なく貴族院で勉強に励んでいるようだ」

 ダンケルフェルガーの者ならば、手にするまで諦めず何度でも挑戦しなさいと母であるマグダレーナが言ったのと、兄であるアナスタージウスがエグランティーヌを得るために一度はツェント候補から降りて結ばれたことを知っているものだから、どうしてもローゼマインへの未練が断ち切れず、周囲がいくら無理だと言ってもヒルデブランドは望まぬ結婚を強いられるローゼマインが可哀想だと聞かない。

「そうですね、ヒルデブランド様の求婚をローゼマイン様が受け入れる可能性が一つだけございます」

「そのようなこと…」

「彼女の理想の求婚は、あなたのためにこれだけの本を用意しましたと申し込まれることなのですよ」

「「「「「えっ?」」」」」

「ですから、アレキサンドリア以上の図書館を彼女の為に建て、彼女が読んだことのない本でその棚を埋めて差し出せば、考えるぐらいはいたしますよ」

 その点、ダンケルフェルガーのレスティラウトは良いところを突いた。あれで、グーテンベルグより自領の職人の方が上だと言わず、丸ごと受け入れると言っていれば、かなり危なかったとフェルディナンドは彼の詰めの甘さに感謝したほどだ。

「それは…神々のわざをもってなければ不可能とは言わないか?」

「私の蔵書はエーレンフェストを出るとき、すべて彼女に譲ってしまったので、求婚の際に渡せる本がなくて魔石になりましたので。今も図書館の棚をすべて埋めることができていませんし、とりあえず書き上げた研究書を渡しておりますが、彼女の卒業までにアレキサンドリア以上の図書館をヒルデブランド様が用意して求婚すれば、可能性はございます」

 王族が本気で言っているのかと、断るための口実ではないかと疑った、図書館が欲しいといったのは、冗談ではなかったのだと理解したが、その元となったのは自身の大量の蔵書を与えたフェルディナンドのせいだ。

 最低限でも彼が与えた図書室以上を求めたローゼマインは、本に対して湯水のごとく金をかける。

「アウブ・アレキサンドリアに好きな本を読み、好きなものに囲まれて過ごす生活を送らせたいのなら、せめて新しい本を次々に用意する財力とアレキサンドリアを遅滞なく運営して彼女が欲しい物を用意し、彼女の健康管理をしながら神々と対峙するだけの力がいる。彼女を守るというのは、生半可な覚悟でできることではない。そのことをよくよく理解させてください」

 これ以上世迷言をぬかすなら、ただではおかないという意思を込めて、綺麗な笑顔を浮かべてトラオクヴァールにスティックパイを勧めた。

 エグランティーヌ主催のお茶会は、自身がグルトリスハイトを所持する正統なツェントであることを神々が認めたのだという喧伝の場であるため、ローゼマインは必ず同席を求められた。

 ダンケルフェルガーの第一夫人はドレヴァンヒェルの第一夫人と中位下位の領地を招いて別の茶会を開く。

 表だって批判はしないが、うまく出し抜かれたと考えている者達も多い。それだけに、理を配る必要もあった。

 カルトカールはロウレの実を混ぜて作り、蜂蜜とクリームを添えた。

 アウブとなってもローゼマインと良好な関係が続いていると、示すようにアウブ・アレキサンドリアから贈られたのだとダンケルフェルガーの現代語訳の歴史書とディッター物語を出す。

 数冊分をまとめ革張りの装丁を施した本は随分と立派な作りになった。

 印刷という美しく整えられた文字が並ぶページに、思い思いの感想をのべる夫人達。

「これが『印刷』ですか」

「ええ、同じ内容の本が短時間で大量に作れる技術だそうです」

「それは…」

「知識の断絶をふせぐためにも、文書に残すことは重要とのお考えのようですよ」

「さすがはメスティオノーラの化身でいらっしゃる」

 以前なら、いくら聖女と呼ばれてはいても、しょせん偶然で順位をあげただけで、中身は下位領地エーレンフェストの虚弱な領主候補生という見方だった。

 だが、アーレンスバッハを下し、未成年でアウブとなった今では、下位や中位の領主が侮る立場は取れない。

 まだ、領地内が落ち着かないという噂もあるが、領都アレキサンドリアだけでなく、領内のあちこちで変化が見え、商人達は行くたびに何かしら変わっていると伝えてくる。

「そういえば、フェルディナンド様は前のアウブ・エーレンフェストにあまり似ていらっしゃいませんわね」

「傍系王族であるジェルヴァージオはとてもよく似ていたとか」

 緘口令を敷いても、中央の騎士だけでなくダンケルフェルガーの騎士達もジェルヴァージオがグルトリスハイトを出した時、その場に数多くいた。

 そして、他国の者がグルトリスハイトを取得したというより、ランツェナーベに出された傍系王族が取得したという方がユルゲンシュミット側には納得できた。

「それ以上は言わぬ方が…ですが裏切り者のラオブルートがあれほど敵視し、王族がアーレンスバッハのディートリンデをあてがって処分したがったのかを思えばおのずと…」

「そうですわね」

 グルトリスハイトを失い、資格もないというのにツェントの地位にしがみついた王族を浅ましいと嗤い、ツェントになる資格をフェルディナンドがもっているのではという予想は確信に変わっていく。

「ご自分が庇護するローゼマイン様にグルトリスハイトを取得させるように導くのですから、やはり今の王族に思うところはおありなのでは?」

「一応、王族の方々にもグルトリスハイトを得るための忠告はされていたようですよ。ただ、王族の方々はその忠告の重要性を理解できず、軽んじていたようですが」

「まあ」

「グルトリスハイトを得ること以上に大切なことはなかったでしょうに」

「せっかくの忠言も、聞く者次第ということでしょう」

 グルトリスハイトを得る方法は開示された。魔道具ではなく、シュタープに写し取る物であること。今まで、ありもしない魔道具を王族である王子たちは血眼で探し回っていたのかと思えば滑稽だが。

 神々に招かれてメスティオノーラの書を得ることでグルトリスハイトを手にできる。

 まずは全属性であり、ユルゲンシュミットの礎を支える魔力があり、神々の加護を得た者がツェント候補となる。

「エグランティーヌ様の御子はツェント候補になれるでしょうか?」

「可能性がないとは申しませんが…」

「アナスタージウス様は全属性になり、加護を増やさねば第二子は望めませんでしょう?」

「大分時間がかかると存じます。いくら中央の領地が減ったといはいえ、王族が魔力を供給しなければならない魔道具は多くございますもの。王配としての務めを果たしながらでは、なかなか進まないでしょうし」

「そうですわね…アウブ・アレキサンドリアの星結びは来年でしたか?」

「卒業に合わせてだそうです。すでに神々によって命の糸は結ばれてしまったそうですから、本当に形を整えるだけですが」

「まあ、神々に言祝がれるなど、考えられませんわ」

「やはり、神々はローゼマイン様をツェントに望んでおられるのでは?」

 これはハンネローゼから話を聞いたダンケルフェルガー夫人も考えたことだ。

 神々にはエグランティーヌの存在はその目に映っていないのではないかと。

 だが、フェルディナンドの様子から、ローゼマインをツェントにして王族たちの尻拭いをする気はないだろう。

「アレキサンドリアはローゼマイン様のためにフェルディナンド様が用意された美しい箱庭でしょう。ローゼマイン様が好きな物とフェルディナンド様がふさわしいと考えた美しい物で満たされた鍵のない檻」

「エーヴェリーベからゲルドゥリーヒを奪うようなことをすれば、どのような報復があるか考えるだけで恐ろしいですわ」

 神との契約として古の選出方法に戻すと宣言したのだ。

 ローゼマインとフェルディナンド、二人の子が生まれれば、魔力だけでなく、能力的にも優秀な領主候補生に育つだろう。そうなれば、ツェント候補から外すということは出来ない。

 15年後、ツェントは『傍系王族』の血統に移る可能性を夫人達は考えていた。

 混乱を最小限に抑えるため、王族による継承を望んだローゼマインだが、『力のある王族』への継承を周囲が考えることまでは予想できていなかった。

 クラッセンブルグだけでなく、元王族であるコリンツダウムとブルーメフェルトにも主流は渡したくはない。

 ローゼマインとの星結びが終われば、アレキサンドリアをフェルディナンドが完全に掌握する。新しい商品に関しては、試作中という言葉で披露され始めている。

 これからアレキサンドリアはグルトリスハイトを与える女神の化身というアウブの肩書だけでなく、産業の発展を迎えて勢いをます。

 マグダレーナはフェルディナンドを外見と能力は一級品でも、相手を思う心がないと言った。だが、ローゼマインに対するフェルディナンドを見ていれば、非常に細やかに、過保護なほど囲い込んでいる。つまり、彼にとって、マグダレーナは心を捧げるに足る存在ではなかったということだろう。

 マグダレーナは大領地の優秀な領主候補生であったゆえに、フェルディナンドの如才のない態度は上辺だけで、マグダレーナをエーレンフェストから出る手段ぐらいにしか思っていないことに気が付いた。

 だからこそ、トラオクヴァールを選んだのだが、彼女もまたフェルディナンドを下に見て、寄り添うことはしなかった。

 求婚者であるなら、私を一番に考え、誠心誠意尽くすべきだろうという無意識の思いが、ゲオルギーネの傲慢さの元である大領地の血筋だという矜持を連想させてフェルディナンドとの見えぬ溝を深めていたのだが、その点に彼女は気づかなかった。

 フェルディナンドはローゼマインの見返りを要求しない慈愛にも似た優しさと気遣いをふんだんに注がれて、ようやく自分の存在を許し、相手に想いを注ぐことを覚えた。

 逆に言えば、貴族ではないローゼマインの率直すぎるほどの愛情でなければ、フェルディナンドには理解できなかったのだ。

 エーレンフェストでは扱いきれなかったローゼマインだが、大領地のアウブとなり、フェルディナンドが全面的に後押しをすることで制約は外れたとみて良い。

 敵対する気は毛筋ほどもないが、次代のツェントを想定してドレヴァンヒェルとダンケルフェルガーは動き始めていた。

[newpage]

 冬の間、領地では社交の季節だが、エーレンフェストの学生は他領に比べて貴族院に残っていた。

 アレキサンドリアはアウブがまだ学生なこともあり、学生達は領主会議が終わるまで居残っているので、ここは例外と言える。

 フィリーネも孤児院を預かる身ではあったが、ローゼマインに依頼されたお話し集めだけでなく、文官としての基礎教養にくわえ、自衛のための護身術や魔術具を使っての罠や攪乱、足止めのためにしびれ薬や目つぶしをぶつける練習などを武官と素材集めに出向くさいの実習として練習を重ねていた。

 今、エーレンフェストの次期アウブの選考がかなり難しく、メルヒオールか生まれたばかりの第四子かで流動的なため、学生の多くは旗色を明確にしたくない身内の思惑もあって、どこか周囲をうかがう気配がある。

ただ、フィリーネ達ローゼマイン閥に居た者達は、できるだけ知識を詰め込もうと複数コースを取る者もいたし、コースはとらなくてもピンポイントで受講だけする者もいた。

 側仕えであっても文官の仕事を兼任する、武官であっても神殿では文官や側仕えの補助をする、側仕えや文官であってもいざというとき自分の身を守れる程度の力がなくてはおいていかれる、それを理解しているからこそ、実家の力を当てにできない者ほど足りないものを埋めようと必死だ。

 知識は無駄にならない、ぶれない彼らに触発されてか、中級・下級貴族の者達は社交よりも貴族院で翌年以降の予習や選択での講義をとって過ごす者が増えていた。

 そして、領主会議の間を縫うように、ユストクスがフィリーネ達に面会を求めてやってきた。如才ない笑顔で挨拶をする彼の両手の籠には甘い匂いのする菓子が一山入っている。

「ローゼマイン様から、頑張っているフィリーネ達にと預かってきた。カップケーキだそうだが、こちらは野菜が苦手な子供向けに野菜入り、こちら干したロウレが入っている」

「ありがとう存じます」

 フィリーネ達のことを気にかけているということを、ローゼマインは形にして示してくれる。だから、フィリーネ達は卒業後アレキサンドリアに移っても居場所がないのでは、と不安になることもなく、エーレンフェストの領で上級貴族の者達に嫌味を言われるぐらいですむ。

「まず、フィリーネ達が親しくしている他領の者達にくばりなさい。余ったら、エーレンフェストの者達に分けると良い」

「ユストクス様?」

「知識だけでなく、人脈は力になる。中級・下級貴族だからわかることもある。武器は多く持っている方が良い」

「ご助言、ありがとうございます」

 あえて、盗聴防止を使わず、ユストクスが周囲に聞かせることで、フィリーネ達がエーレンフェストの者達に菓子を配らなくても良いようにしてくれたのがわかる。

「あの、もしかしてこれ、『紙』ですか?」

「ああ、アレキサンドリアで作られた新しい紙で、ローゼマイン様が料理や製菓用に採用された紙だ。器替わりに使い、食べるときは破いて捨てるそうだ」

「なんという贅沢…」

 ローゼマインにすればキッチンペーパーやケーキの型に敷く型紙の認識だが、知らない者にすれば側近達ですらその無駄使いに気が遠くなりかけた。

 だが、富貴の証と、味覚がおかしくなるほど香辛料を使うより、紙のほうがアレキサンドリアらしいではないかとローゼマインが訴え、香辛料が効きすぎてアーレンスバッハ料理が苦手なフェルディナンドが採用してしまったので、現在、紙で包んで野菜と魚をオーブンで焼いたり、型に敷き紙を敷いて焼くマドレーヌなどが食卓にあがるようになっている。

 そして、他領にも敷き紙を採用したお菓子を贈答用に配り始めていた。

「まあ、試作というか失敗作をひたすら食べさせられていると、この型紙を破くのも平気になるが」

 失敗作といっても黒焦げのようなあからさまな失敗作はない。試食係はちゃんと食べきることと、味についての感想を言うのが条件だが、なかなか人気な役目で、ユストクスは毒見の役目だと必ず新作料理の試食に参加していた。

「本を作るというのは変わりないが、紙の種類がもっとあっても良いと、いろいろお考えですよ」

 包装紙やギフトボックスを作ろうとして、さすがに周囲の者達に止められていた。

「ローデリヒとグレーティアが、フィリーネ達がくるのを心待ちにしている。力をつけてアレキサンドリアにきなさい」

「はい、できる限りの努力をいたします」

 親の庇護がなく、下級貴族出身のフィリーネがアウブの側近になるというのだ。ローゼマインの慈悲すがっただけだと、口さがない者達は噂するだろう。それに負けない実績を積めとユストクスに言われ、フィリーネははっきりと頷いた。

「あと、出来ればダームエルは早めに来てくれると助かる。マティアスとラウレンツも頑張っているが、とにかく手が足りない」

「それは文官の仕事も手伝えという意味でしょうか?」

「…平民の職人達と話ができる貴族が必要なのだ。新しい事業計画はあっても実行できる者が少なく、マティアス達も交代で神殿と職人街や商人達との会合を回っている」

 ユストクス、ハルトムートは肩書が五つぐらいあって、文官の中でもフェルディナンドが良いように扱う遊撃扱いだ。とにかく現場を任せられる貴族側の責任者が圧倒的に不足していた。

「これは命令ではなく、あくまでも打診だが、その方の兄のヘンリックとその家族ともどもアレキサンドリアに移って来ないか?」

 とフェルディナンドから内々にダームエルは誘われていた。

 下級貴族の中でも下位であるダームエルはいつ領主候補生であるローゼマインの護衛騎士を解任されるかと思われていた。

 それなのに、直々にアレキサンドリアに移ってくるようにと呼ばれていることと、ボニファティウスが直接鍛えていることで余計に周囲は複雑な思いを抱いて嫉妬もした。

 その余波が兄のヘンリックに向かった。

 アウブ・エーレンフェストの主導で印刷業を広げるための文官の中にヘンリックが入っていたのは、ダームエルの兄であり身食いであった平民のフリーダに対して無体な扱いをしない点を買われてのことだったが、ローゼマインから十分な引継ぎと指導がないまま城の文官達の主導で行われる印刷業が滞ると、その責任をヘンリックにかぶせる上級文官達が出はじめた。

 弟のダームエルがローゼマインの厚情厚いからと思いあがっている、と難癖をつけたのだ。

 もともと上位者に振り回され、理不尽な思いを飲みこむことが多かったヘンリックだったが、ダームエルは兄に申し訳なく感じていたので、フェルディナンドの申し出に驚いた半半面喜んだ。

「よろしいのですか?」

「エーレンフェストで脳なし上級貴族につぶされ、飼い殺されるぐらいなら、アレキサンドリアでローゼマインに仕えれば良い。愚痴をこぼす暇もないほどこき使ってやる」

 魔王めいた悪辣な微笑を浮かべるフェルディナンドに逆らうことはとてもできず、ダームエルは兄を拝み倒して一緒にアレキサンドリアにきてほしいと懇願した。

 ヘンリックは自分の立場の苦しさと、限界を感じていたのでアレキサンドリアに移ることを了承し、フリーダに契約解除を申し出たのだが、彼がアレキサンドリアに移ると聞いてフリーダは自分もつれて行ってくれと言った。

「もちろん、ただでとは申しません。イタリアンレストランの料理人であるイルゼも同伴いたします」

 イルゼの作る料理はローゼマイン様だけではなくフェルディナンド様にも気に入っていただいております、と胸を張った。

「良いのか?イタリアンレストランはオトマール商会でも重要な位置だろう。エーレンフェストにとっても、あの店に代わる店はないのに、その料理人を引き抜くなど」

「イタリアンレストランの料理人はイルゼだけではありません。ですが、アレキサンドリアでもイタリアンレストランのような店を出されるおつもりなら、ローゼマイン様とフェルディナンド様を納得させるだけの料理を考えられるのはイルゼだけですわ。わたしはアレキサンドリアでローゼマイン様が生み出される新しい料理や商品を取り扱わせていただきたいのです」

「フリーダ…」

「わたし、今ほどヘンリック様に引き合わせてくれた神々に感謝したことはございません!いえ、今までも十分にヘンリック様にはお気遣いいただき、感謝していましたけど、ですが、契約解除など思いも寄らぬことです」

 平民でありギルド長の娘であるフリーダはエーレンフェストから出られない。だが、身食い契約で主人であるヘンリックについていくという大義名分があるならば、アレキサンドリアに移ることだって不可能ではない。

「わたし、必ずお役に立ってみせます」

「ギルド長に話をしなくてはな」

「では!」

「ギルド長の了解が得られればだ」

 孫娘を溺愛するギルド長が了承するとは思っていなかったが、フリーダ自身が説き伏せた。今度こそベンノに独占などさせない。ローゼマインが考える商品を自分が作って売るのだと野望に燃えるフリーダを家族達も止めず、後押しをした。

 後に印刷業の遅延に対する責任をとると辞任したヘンリックはアレキサンドリアに移り、商業区域を取りまとめる責任者に任じられ、生産や販売など新規開業を志す者達への援助などを行う商工会の代表になるとともに、レストランや商人達の会話から知った情報をユストクスへあげる情報部も兼任することになるが、それはまだ先のことだ。

 この時のダームエルにすればヘンリックがアレキサンドリアに移ることを了承してくれ、兄とその家族をエーレンフェストに残さなくてすんだことに安堵していた。

 そして、手ぐすねを引いて待っていたユストクスにヘンリックはこき使われることになったが、フリーダもまた扱える商品の幅広さに生き生きとし、愛人というよりは仕事のパートナーとして扱われることになった。

 フィリーネ達を引き取るのが一つの区切りとなるのは、周囲がなんとなく察していたことだ。孤児院に居る者達も、自分で自分を買い取ってアレキサンドリアに移ることを考える者も出始めている。

 ローゼマインの元へ、それだけを願ってギルなどは移れる日を待っている。

 待っていると言われて微笑むフィリーネ達を苦い表情で見ていた騎士コースの生徒がユストクスに話しかけた。

「どうしてですか、ユストクス様」

「何がだ?」

 本来であれば、目下の者が目上の者に許可を得ずに話に割って入るなど許されないが、フィリーネは何も言わず、ユストクスも話しかけてきた生徒に視線を向けた。

「どうして裏切り者の子供であるローデリヒやマティアスが、アウブの側近としてとりたてられるのです?どうして彼等は裁かれないのですか!」

 ゲオルギーネがエーレンフェストを攻めた時、エーレンフェストでは死者が出た。

 マティアスの父グラオザムはゲオルギーネに名を捧げただけでなく、明確にアウブであるジルヴェスターに対する反逆者だった。

 連座を避けるための名捧げではあったが、あれほどはっきりと反逆した者の身内でありながら、ローゼマインはマティアスを側近から外すことはしない。

 エーレンフェスト側に配慮して、貴族院に連れてくることはしないが、ダンケルフェルガーからも忠臣として認められているのがエーレンフェストでは納得できない者達が多いのも事実だった。

「彼らは自身で主を選んだからだ」

「ユストクス様?」

「グラオザムがゲオルギーネを主に選んだように、マティアスはローゼマイン様を主に選んだ。それだけのことだ」

 改めて、ユストクスは生徒達に向いて座りなおした。

「もともと、ヴェローニカに属する者の流れではあったが、ゲオルギーネとヴェローニカに組する者達は同じではない。名捧げをしていた者もいたが、ゲオルギーネに心酔していた者もいた。ヴェローニカが失脚して、もう一度自身の栄華を望んでゲオルギーネに味方した者もいた。ヴェローニカに名捧げをし、彼女を白の塔から出すためにゲオルギーネに味方した者もいる。いうなればジルヴェスター様が、自分たちに便宜をはからず、意見も聞かず、ご自身の考えで動かれては困る者達の集まりだ。いくら冷遇されていても、上級貴族達はライゼガング系が多いのだ。領主が味方してくれなければ、今までの反発からもあっという間につぶされることを理解していた。それでも彼らがエーレンフェストの中枢に居座って世代がかわる程度には時間がたっている。裏切りの芽があることを理解した上で、彼等を利用する度量がジルヴェスター様にあれば話は違うが、あの方は仕事を他者に丸投げしてご自身で確認することをしない。これでは、任された者が小狡い悪党であれば、いくらでも利益を中抜きできる上、都合の悪い情報を上げなければ事態は悪化して非難はジルヴェスター様に向く。結局、信用できぬからとすべてを排除しようとして、ご自身の味方を減らし、今の人材不足と混乱がある。フェルディナンド様はアーレンスバッハの者を信用はしておられない。だが、利害関係で結ぶ相手には仕事を任せ、その成果でもって評価される。人は裏切る、だから常に警戒を怠らず、裏切られぬように自分に味方することで与えられる利を提示し、主人にふさわしく務める、というのは昔から変ることがない。ローゼマイン様は慈悲深い方だが、ご自分が大事に思う者を優先される。信頼を捧げられれば信頼で返され、利用しようとする者は利がなければ捨て置かれる。マティアスはアウブとなったローゼマイン様に仕えようとしたのではない。貴族院だけでなく家族にも冷遇されていた非力な子供を守ろうとした、本狂いの虚弱な領主候補生に一生を捧げると契約し、その姿勢は今も変わらない。アウブとなったローゼマイン様に対する見方が変わったのはその方達であって、マティアス達ではない」

 ユストクスは子供たちに冷然と言い放った。マティアス達の幸運をうらやむ者達がエーレンフェストに多くいることを知っている。

 だが、彼等がなんの苦労もなくローゼマインに仕えることを選んだ訳ではない。文字通り、彼等には後がなかったのだ。

「ユストクス様、一つ教えていただきたいのですが」

「なんだ、ランプレヒト」

 どこか思いつめた表情でランプレヒトがユストクスを見る。

 ランプレヒトはヴィルフリートの護衛を辞任した訳ではないが、遠ざけられ立場が不安定だった。

 ギーベとなるヴィルフリートについて行くかどうか、いまだ自分でも決めかねている。

 最初は自分で選んで仕えたわけではなかった。それでも、白の塔に入るという失点から努力したヴィルフリートを支えようと思ったから、辞職はしなかった。

 だが、ヴィルフリートはローゼマインと比べられるのは嫌だ、ローゼマインにフェルディナンド叔父と比べられるのは嫌だと、アウブにはなりたくないと全てを投げ出した。

 領主候補生ではなくなるということを、責任を負わなくて良いという解釈でとらえ、仕える者達の立場がどうなるのかということまでは考えていない。

 神殿に入ってもフェルディナンドに仕える意思を変えなかったエックハルト。王族の養女となって中央に移ると言われても、フェルディナンドを救うためにアーレンスバッハに攻め入ると言われても、アウブ・アレキサンドリアとして元敵領入ると言われても付いていくことを選んだコルネリウス。

 ならば、自分はヴィルフリートの立場が変わっても付き従うべきなのか。だが、自分は彼等のように主人であるヴィルフリートから信任を受けていない。それでも付いていく意味はあるのだろうか。

 両親からは自分で選べと言われ、アーレンスバッハの領主一族に近い妻と彼女との子供の立場を守るためにも、どうすれば良いのか途方にくれていた。

「ヴィルフリート様とローゼマイン様、いえヴィルフリート様とフェルディナンド様との違いは何でしょうか」

 確かにヴェローニカに甘やかされていたころは我が儘で我慢のきかないどうにもならない子供だったが、根は素直でまじめで、言われれば理解するようになったし、貴族院では優秀な領主候補生と見られていた。

 エーレンフェストの防衛戦では立派に務めを果たしたともいえる。それなのに、何が違ってここまでの差になるのか。

「そのようなこと、エックハルトかコルネリウスに聞いたらどうだ?」

「兄上に尋ねたりしたら、比べる方が間違っていると言われるのがおちですし、コルネリウスも女神を降ろすローゼマイン様と比べるのは気の毒だというだけで」

「まあ、そうだろうなぁ」

 エックハルトはフェルディナンドに狂信にちかい忠誠を捧げているが、コルネリウスにすれば優秀ではあっても母親の身元も明らかでなく、ヴェローニカによって神殿に追いやられていたかなり年上のフェルディナンドがローゼマインの夫というのは頭で理解していても感情が納得しきれない部分があるようで、いまだに二人が隠し部屋に入るのを邪魔している。

 それでも、武官としてフェルディナンドの魔獣討伐などの指示には無条件で従うのだが。

 ただ、彼らは主人たちが不遇であった時から仕えていたのだ。今更自分の主を変えることはないだろうと解るだけに、ランプレヒトには迷いが生じる自分を持て余してしまうようだ。

「ヴィルフリート様との差は、能力の差と言ってしまえばそれまでだが、一番の差は覚悟。もう一つは将来像を予測する力」

「覚悟と将来を予測する力ですか?」

「そうだ。フェルディナンド様は長くご自身の身が危険だったため、将来起こり得る事態について、何通りも予測し、それに対する対応策も用意される。まあ、ローゼマイン様の引き起こす事態はフェルディナンド様の予測を超えることも多いのだが、それでも考えうる限りの対策はたてられている。ローゼマイン様は結果ありきで、逆算で考えられる。例えば『本が欲しい』、無いなら作ろう、紙が高いなら安い紙を作る、廉価で本が作れれば読む人が増えて書く人が増えるだろう。『魚が食べたい』、ならば美味しいレシピを考えよう、安定的に魚の供給をするためにはどうすればよいか、という具合に一つの事柄からいろいろ派生させて考えられる。ローゼマイン様の中に完成形のようなものがあり、それに近づくための手段を考えるために他者がいる。だからローゼマイン様の工房の者達は専門的知識を持つ者が多く、役割分担で彼らを使うことに慣れていらっしゃる」

 フェルディナンドはなかなか他人を信用して側におくことをしないが、ローゼマインは他人の手を借りなくて生きていけないので、他者を頼ることに忌避感がない。

「お二人とも自分を守るため、大切なものを守るため、欲しい物を手にするためには力が必要だということをよくご存じだ。力がなければ強き者に奪われ、蹂躙されるだけだと。だから、敵対する者に対しては容赦がない。慈悲深いローゼマイン様とてフェルディナンド様を害そうとする者には王族であろうと躊躇なく威圧をかけられる」

「本当ですか?」

「ああ、名捧げ組が教えてくれた。アーレンスバッハのディートリンデを止められなかった責をフェルディナンド様に問おうとしたジギスヴァルト元王子を含めて、王族たちを危うく高みにおくりかけたと」

 話を聞いたエックハルトはよくやったと誉め、ユストクスは苦笑するにとどめたが。

「ヴィルフリート様はよくも悪くも悪意から遠ざけられ、大切に育てられた若君だ。そして、アウブの重責を知らず、ギーベの役割も知らないまま、自分自身の力を認められ、誉められることに拘る。ローゼマイン様もフェルディナンド様によく誉めて欲しいと言われるが、周囲の苦言をきちんと聞かれるぞ。ヴィルフリート様はライゼガングに認められたかったようだが、どうして疎まれ、ヴェローニカが恨まれているのかを真剣に知ろうとはしなかった。耳当たりの良い言葉でごまかされて、それを信じてしまわれる。いまだに甘やかす周囲もどうかと思うが。いっそ魔力を封じて下町に放り込んで貴族の肩書と親の庇護がなければ他人にとって何の価値もないのだと自分の無力さを思い知らせるか、五、六回死にかければ多少はあの性格も矯正されるのではないか?」

「それは…」

「それができないなら、他人の感情に気遣いができず、自分に甘いあの性質は変わらないと諦めろ」

「ユストクス様…」

「フェルディナンド様の優秀さと何事も先手を取ろうとする警戒心の強さは、それが出来なければ命が危うかったからだ。ローゼマイン様の優秀さはアウブの養女となったのだから優秀であることが自身を守り、自分に協力してくれている街の者達を守ることに繋がると理解されているからだ。神殿育ちだったにもかかわらずローゼマイン様はご自分の身分の違いと他人の命を預かることの重みを理解されている。自分の失点は自分だけの責任ではすまないと理解している。お二人は上位者に対して、決して気を抜くことはしないし、唯々諾々と従うことも良しとされない程には高い矜持をお持ちだ。ヴィルフリート様は『矜持』と『覚悟』の意味がお二人とは異なっているように私は思えるが?」

 ローゼマインも失敗を許されてきたが、何がダメなのかその都度叱られ、フォローする周囲の様子をみて反省もした。ただ、その反省がいかされず、余計に大きな問題を引き起こすこともあったが、フェルディナンドが叱りつつ手伝いもし、ローゼマインの望みを叶えてもきた。

 そして、ローゼマインが望むのは皆の幸せだ。皆が美味しいものを食べて、今日も良い一日だったと安心して眠れる生活。明日はもっと良いことがあると思える生活。

 アレキサンドリア図書館に新しい本で埋められた本棚が並べばもっと嬉しいが。

 ジルヴェスターは自分が嫌々勉強をさせられていた経験から、ヴィルフリートに無理強いはしなくて良い、必要だと理解すればおのずとやるだろうと言ったが、どうして必要なのか教えないのだからヴィルフリートが気づくはずがない。

 何をしても叱られない幼少期に、失敗しても許され、次期アウブと周囲から言われる生活。ローゼマインを助けるのだと言って、魔力の奉納を手伝いはしても、それはローゼマインが抱える仕事のほんの一部でしかない。

 人一人養うのにどれだけのお金がいるのか、それを稼ぐにはどうすればいいのか、労働に対する対価という考えがそもそも無いのだから、子供部屋で配る菓子の手配にしても、作るための材料費や人件費ではなく、ジルヴェスターから予算がないと言われて用意できないと判断するだけだ。

 現代日本人の記憶があるローゼマインは、収益に対する経費を理解しているからベンノ達商人や職人と話が通じるが、献上されるものか与えられるものしか接していないヴィルフリートやシャルロッテでは「それでは商売が成り立たない」という認識が理解できない。

 フェルディナンドの金銭感覚はいささかおかしいが、それでも貴族院時代自力で資金を稼いでいたので金の必要性は理解していたし、神殿で帳簿を管理していたため組織を維持するために必要な経費、不正を見つけるための私費と公費の区別は理解していた。

 環境が人を作るのだと、ローゼマインはユストクスに言った。

 下町にいれば、領地の経営など考えない。今晩の料理のおかずが一品ふえるかどうかが重要で、新しい産業を生み出そうなど考えないと。

「以前、人は変われるのだとローゼマイン様は言われた。反省室に何度入れられても態度が改まらず、問題児扱いだった灰色神官が、今ではグーテンベルグに同伴して印刷技術を指導するまでになったように、人は変わりたいと願えば変われると。だが、私は人の本質的な性根はそう簡単に変わらないと思っている。変わる必要を感じなければはなおさらだ。私に言わせれば、今のヴィルフリート様は苦労知らずの嫌なことから逃げ出す甘ったれた子供だ。変われるかどうかは、本人と周囲の覚悟次第ではないか?本人に変わる気があればだが」

 領主になるのは嫌だと言ったが、それでは何になりたいのかという将来図は無く、結局ギーベになれとジルヴェスターに命じられて受け入れた。

 だが、近隣も含めて扱いが難しいゲルラッハ。他ギーベ達の反感と荒れた土地に対する領民の不満をどうやって解消していくのか、その設計図がヴィルフリートにはない。

 領主の息子が入れば不満を抑えられると考えているならジルヴェスターの見通しが甘すぎるし、ヴィルフリートは考えが足りなさすぎる。

 領主の息子がギーベとなって入るのだから、というのはジルヴェスター側の見方であって、ゲルラッハに必要なのは着実に立て倒し、近隣ギーベとの関係を改善してくれる人間だ。

「領主候補生がギーベとして失敗すれば、無能の烙印を押されると考えているだけなら、思考が蜂蜜漬けにでもなっているとしか思えない。ギーベとして失敗すれば、民に恨まれ、その不満と怨恨の眼差しを目の当たりにすることになるのだぞ。自分たちが貧しいのは、飢えるのは、不利な取引を要求されるのは、すべてギーベが無能だからだ、とな。城にいた時のように、嫌なものや汚いものを隠してくれる者はいない。仮にいるならば、ゲルラッハはより一層の怨嗟の声が増えるだけだ」

 青ざめたランプレヒトの顔を見て、ユストクスが平坦な声で告げる。

「ヴィルフリート様に多少でも情があるならば、本当の意味で『次は無い』ということぐらいは教えてやれ。経験不足が言い訳になるほど、ギーベの地位とは軽いものではない」

 それすらも理解していないような気もするが、とユストクスに指摘され、ランプレヒトはただ頭を下げ、他のヴィルフリートに近しい者達も顔を伏せた。

「主の立場が将来どうなるかなど、神ならぬ身では予想しても意味をなさない。ローゼマイン様は下位領地の上級貴族の娘からグルトリスハイトを授ける女神の化身となり、アウブに就任され、フェルディナンド様も紆余曲折のすえその夫候補となったが、お二人が星結びを終えられるまでは気は抜けぬ。星を結ばれても御子が出来ぬなら出来ぬで、生まれたら生まれたで、王族や他領からの干渉もあるだろう。それでも、大切な者達を守るために戦うことを厭わぬお二人だからこそ、立場がどう変わろうと我らも信じて付いていける。そなた達が自分の主に求めるのは何か、今一度よく考えてみるが良い」

 覚悟をもてと、そう言われたフィリーネ達も真剣な顔で一礼する。

 ローゼマインの元にいくということは、ローゼマインとフェルディナンドが統治するアレキサンドリアについて行く覚悟を示せと、生半可な努力ではあの二人について行く事は出来ないと、そう言われていることを理解したからだ。

 

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