紫翠楼/WILD FLOWER

箱庭の庭園3本好きの下克上

フェルディナンド×ローゼマイン

「遅くなって申し訳ない」

 案内されてエーレンフェストの客間に現れたフェルディナンドは、社交用の笑みを浮かべて遅参したことを侘びるセリフを口にするが、その態度に殊勝さはない。

「予定より遅かったですけど、何かございましたか?」

「大事ない。資料の数字にいくつか修正があっただけだ」

「ならば良いのですけど」

 嬉しそうに顔を綻ばせるローゼマインの頬をするりと指の背で撫で、虹色魔石の髪飾りをシャラリと揺らせるのにフェルディナンドがわずかばかり口元に笑みを形作るのを、周囲はいたたまれない思いで視線をそらした。

 意図的なのか、婚約者の立場を得てからことさら周囲に見せつけるようになった。

 ローゼマインを飾る虹色魔石のお守りを兼ねた装飾品は全て自分が贈ったもので、自分以外の者は一つとして贈れないのだと。

 領主会議前なので、各領地の新たな順位はまだ確定しておらず、領主の婚約者である立場だが、フェルディナンドはジルヴェスターから勧められる前に席に着く。

 すると、すぐさまフェルディナンドの前にお茶と茶葉を混ぜたラングドシャがおかれ、フェルディナンドは毒見をすることなく口にする。

 フェルディナンドが着ているのは、濃紺色のマントに虹色魔石の留め具、薄い青に紺色で半円を繰り返し連ねた模様のある生地で作られた衣装で、腰には守護の陣を刺しゅうした飾り帯をしている。

「その衣装は…」

「ああ、海のあるアレキサンドリアにちなんで、波を意匠化した『青海波』という柄だ。このような続き柄を染めた布を売り出そうかと考えている。量産は早くて二年後だが」

「量産できるのか?」

「する予定だ」

 もともとアーレンスバッハで作られていた薄い布も、縦糸と横糸の色を変えることで、陰影が青とも黒ともみえる仕様の物に小さめの虹色魔石を縫いつけ、上着に羽織って重ねている。

 飾り帯の内側にはローゼマインが消えるインクで解毒や物理防御の陣をこれでもかとびっしり描き、見える表側には側仕え達が精緻な刺繍を施した。

 ローゼマインが普段使いで身につけているお守りも大概だが、フェルディナンドの衣装も大金を払えば手に入るというような代物ではない。

「フェルディナンド、先程もローゼマインに頼んだのだが、エーレンフェストで新規に導入した印刷機の設置がうまくいってないのだ。出張費を払うからグーテンベルクを派遣してもらえないか?」

「無理だ」

 即答したフェルディナンドが優雅に見える所作でお茶を飲む。

「いつなら可能だ?」

「だから、無理だと言っている。アレキサンドリアでは新規事業がいくつも同時進行していて、グーテンベルクには過重労働を強いている。派遣する余裕などあるわけがない」

「印刷業だけではないのか!」

「印刷業はローゼマイン様の趣味だ。ローゼマイン様が卒業するまでに、アレキサンドリアを目に見える形で復興発展させておかねば、どんな横やりが入るか分らぬ。旧アーレンスバッハで甘い汁をすすっていた者達を排除し、不満分子を結束させぬためにも、新しい事業を興してローゼマイン様を支持すれば利があると示し、余計なことが考えられぬようにせねばならぬ。女神の威光が使えるうちに、進められるだけ進める」

 今までは急ぎ過ぎだとローゼマインを抑えていたフェルディナンドが推進する側に回ったのだから、城に仕えている文官だけでなく土地持ちのギーベ達も自身の領地にあった産業推進に追われている。

 さしあたり、印刷業に伴う紙づくりと印刷機の導入は当たり前。

 今までの魔力不足もあって領民の貧しさが目につき、産業振興をローゼマインは掲げた。

 下町だけでなく、領都であってもどこか疲弊と貧富の差が目についた。

 やはり、衣食住は基本だろうと、街はエントヴィッケルンで順次区画整理して作り変える計画案をたてた。食は魚を使った料理の開発に、輸入が止まった香辛料と砂糖はフェルディナンドの研究所に所属する文官達が研究に没頭し、量産はまだ時間がかかるもののなんとか目処がたった。

 だから衣だとローゼマインは、安価な既製服を提案した。

 このあたり、母親と姉の存在がなかったとはいわない。それでも、今の衣服が高すぎるとローゼマインが言った。もっと、平民でも手が出やすい価格の服があってもいいじゃないかと。

 そしてフェルディナンドに『飛び杼』を作って欲しいと言った。

 あまり得意ではない絵を描きながら、こういう用途なのだと説明すると、フェルディナンドはトントンと蟀谷を叩きながら顔を顰めた。

「これを作ればどうなるか、分かっているのか?」

「ええ、布の生産が格段に増えて、価格が下がります」

「従来のままの事業者は立ち行かなくなる」

「そうなりますね。一気に生産量が増えますから、紡績機も必要になります。生産がふえるのですから、染色工房も一色だけの染めではなく、柄の違いをだせるようにします。貴族相手の一点ごと丁寧に縫製をする衣装と、袖と裾を直す程度まで仕上げた衣装で客層をわけます。廉価の布を生産することで、服飾を発展させたいのです。あっ、縫製用の『ミシン』も欲しいです。女性の所得が増えれば、それだけ世帯収入が増えますし」

 思いつくまま、次から次へとあれが欲しい、これが欲しいというローゼマイン。

 ディートリンデの我儘は、あれは嫌だ、これが気に入らないと言って、自分が気にいった他人の物を取り上げることもしばしばだったが、ローゼマインの場合無ければ造れば良いと言いだすので、巻き込まれる範囲が広がり、規模が大きくなる。

 クリスタルガラスも、食器用と花瓶やシャンデリア、服飾などの装飾品で展開すると言いだした。職人達に基本の配合は教えるので、あとは自分達で最適を探し、カッティングを研鑽しろと言いながら、特産物に乏しい地方貴族達には魔力を使用した高温の炉を提案している。同じ形、同じサイズでの規格生産と工房毎の統一感のあるデザイン、クリスタルガラスは透明度が要で、色ガラスは発色。

 領主がその技術を認めたグラスなどの食器の工房には『バカラ』、シャンデリア等の室内装飾品やアクセサリー等服飾品を生産工房には『スクワロフスキー』の称号を贈り、領地対抗戦と領主会議ではさっそく売り込んでいく予定にしている。

 もともとが、フェルディナンドの大きな手なら、バカラのブランデーグラスやロックグラスが似合うなと思ったのが発端だったりする。

 女性向けに果実酒用のフルートグラスも良いし、ベネチアグラスのような色の入ったグラスも良いとあれこれ追加し、魔道具の照明も便利だけど、ゴージャス感ならシャンデリアだと言いだし、ベルサイユ宮殿ほどキラキラゴージャス感はいらないけど、小トリアノン宮ぐらいはと説明が難しいから記憶を同調させませんかと以前にもまして気軽に言ってくるのでフェルディナンドは頭が痛い。

「ローゼマイン様が欲しいという物を、私と研究所の職員で試作するが、とても普及品とはいえないので、素材や魔力消費の低減効率化をライムントが、魔力を使わずともよい平民でも扱える部分を改良するのをグーテンベルクが担当していて、今アレキサンドリアで一番寝食を削って忙しい部署だ。とても他領に行かせる余裕などない」

 エーレンフェストでは一つの工房を専任とするのにこだわっていたベンノだが、多岐にわたりすぎて、今では公募制だ。

 やる気のある者は年齢や所属、身分にかかわらず、課題を提出して審査を受け、合格した者はローゼマインが経営する『会社』に雇われる。他の工房に所属している者は出向もしくは預かり扱いで、給与はローゼマインが基本給に仕事の内容に合わせた割増、収益が出た場合の賞与を出す。もちろん、契約魔術で技術や知識が親方のもとに流出しないように制限をかけている。

 これは、思っていたよりもアーレンスバッハの工房で仕える職人が少なかったことに由来する。

 今まで、賄賂と口上で仕事をとってくるのが親方の役割だったせいで、精密な作業を求められることが少なく、客あしらいが上手い者が上にとりたてられていたからだ。

 職人ならばまず技術力だろうと、工房単位ではなく、やる気と腕がある職人を釣り上げる為に、ポンプと蛇口を課題にした。

 作図通り精密に作れなければ、設置が出来ないし、設置できても水が漏れる。再提出は一度だけ認めたが、それでも合格者は三十人もいなかった。二次合格者を鍛えることでどうにか回そうとしている状況で、指導役としてグーテンベルクの金属加工担当の二人は自分と同年代か年上相手に教えている。

 魔力を利用した高温の炉に溶接機に研磨機、金属でも削りだすことが可能な旋盤、ローゼマインの元でしか使えない高機能の設備の数々を目にした社員に採用された者達は驚愕し、やる気のある若手たちは目の色を変えてクビにされまいと技術研鑽に励む。もちろんその設備もフェルディナンドが試作して、ライムントとエーレンフェスト組のグーテンベルクが改良したものだ。

 ユストクスから体力特化の回復薬が40本ほど差入られて、ベンノだけでなくグーテンベルクの職人にルッツ、マルクも顔を引きつらせた。

「これでも、負担をかけて申し訳ないとは思っているのだ。一応、飲みやすいように味も改良されているとローゼマイン様からの保証付きだ」

 それで誰が作ったのか想像が出来た。フェルディナンド様は分かりにくいが優しいのだとローゼマインは言っていた。確かに、平民である自分達に貴族謹製の回復薬を差しいれてくれるのだから優しいのだろうが、できれば休みをくれるほうが嬉しい。それか納期を延ばしてくれるほうが。

「大丈夫だ、ここを乗り切れば楽になる」

「…嘘だ。これが終われば、規模が拡大して仕事が増えるんだ。その上新しい仕事も上積みされるにきまってる」

 エーレンフェスト時代を知っているヨハンがボソリと言えば、ユストクスは何も言わずに微笑んでいる。

『否定しないんだ…』

『そこは否定して欲しかった…』

『判ってたけどさ…』

『誰だよ、あれに権力もたせた奴!』

「さて、アレキサンドリアでもイタリアレストランのような食事処を作る予定だ。香辛料を多用した店と、香辛料を控えて魚などこの地ならではの食材を使った店、あと他領の領主や貴族が滞在する時の利用を対象とした『迎賓館仕様』の超高級店、一定のレシピと専用機材を貸し出して平民でも気軽に入れる価格である程度の味を確保する店を複数展開する『ふらんちゃいず』経営の店をやる予定なのだが、どうだ?ベンノ、代表をやってみるか?」

「お声をかけていただいたのはありがたいことですが、謹んでご辞退させていただきます。ただでさえ出版業が忙しく、片手間でできそうにありませんから」

「そうだろうな。とりあえずはイタリアンレストランを基準に二店舗。こちらはギルドの連中を取りまとめて連絡を。今なら貴族家を解雇された料理人も探しやすいだろう。経歴も大事だが、本人のやる気を重視して、新しい料理に挑戦する気概のある者を選ぶように。迎賓館仕様は料理人を育てるのに時間がかかるし、平民が利用する『ふらんちゃいず』は道具の開発と価格のすり合わせがこれからだ。実際稼働させるのは二、三年後になるだろうし、その時は他領からの引き抜きや横やり防ぐためにも貴族を代表に入れるつもりだ。多分、平民では対処しきれなくなるだろうからな」

 試されていたのかと思いつつ、貴族だけでなく他領の領主を相手にする食事処の運営など、トラブルの予感しかしない、そんな面倒な経営は誰かに丸投げするに限ると内心考えたことは口にしない。

 エーレンフェストで骨身に染みたのだ。ローゼマインの考案する全てを自分一人でやろうとするのは無茶だと。だから、このアレキサンドリアでは注力するものとそうでないものに分けねば、このままではどこぞの貴族様のように回復薬が手放せない生活が当たり前になって、皆が過労死に向かって一直線だと思った。

「ただし、出資者として助言ができる程度の立場は得ておいてくれると、こちらとしてはいろいろ話を通しやすくて助かるのだが」

「承知いたしました。ローゼマイン様との付き合い方が分らず戸惑っている者達が多いようですので、相談役程度には」

「よろしく頼む。なにあと数年でダームエルがフィリーネや灰色神官達を連れて移ってくる。そうなれば、平民に慣れた担当者が増えて気苦労も減るだろう」

「それはこちらとしても助かります」

 護衛騎士のはずなのだが、使い勝手がよいせいですっかり文官としてもこき使われてベンノ達とも顔なじみのダームエルが来てくれれば、もう少し気分が楽になるだろうかと思ったが、多分事業拡大して手が足りなくなり、エーレンフェスト時代以上にこき使われる姿が今から思い浮かんだ。

「あいにくとこちらには信頼できる平民の伝手がない。負担をかけるが橋渡し役を頼む。ある程度、ベンノ側で篩にかけて報告してくれ」

「承知いたしました。どうにも今まで貴族に対しては賄賂を渡して陳情するのが当たり前だったようで、そのあたりも戸惑っているようです」

 フェルディナンドも商人が挨拶と一緒に物品を持ってくるのは当たり前と捉えている。

 だが、ローゼマインはその賄賂が価格に上乗せされている、一度や二度の贈り物で今後ずっとぼったくられるのでは割に合わないと否定的だ。

 賄賂の額で取引が決まるのでは、資金が厳しい新規参入は難しいではないか。今までの商慣習を無視する訳ではないけれど、技術力と信用で仕事はとるものだと考えているので、まず自由参加で課題を与えてふるい落としにかけるコンペ形式のやり方に、アーレンスバッハの工房職人達は戸惑っている。

「一気に処分すれば組織が回らなくなるから、目に余るものを見せしめに処分して、おいおい配置換えと組織改革を行う予定だ。特にローゼマイン様が直轄主導する新規事業は今後アレキサンドリアを支える事業で利潤が大きいだけに、害虫にやられてはたまらぬからな」

「はい」

 貴族だけでなく平民、それも庶民にも利潤を配ろうとするローゼマインの事業を歪められて平民には任せらせぬと権限を取り上げられるようなことになってはたまらない。

「まずは印刷事業を行うための技術指導、しっかりと頼む」

「心得ております」

 図面に書かれた規格どおり精緻に作成する事を徹底させる。それが出来なければ、今後ローゼマインが望む道具は作成できない。そして金属加工ができる職人が増えないと、ひたすら金属活字を作る傍ら、新しい精緻な道具も依頼される羽目になる。

 今回は開発がメインのザックでさえ、基本の構造をフェルディナンドが立案していても、ライムントと普及版や廉価版についてのやりとりでの新たな発見を含めて、依頼された試作図面が山積していて、企画準備段階でこれでは実際走り出せばどうなるか。

 新しく削り出し加工用の旋盤や研磨機などが導入され、どう考えても一つの工房程度では追いつかない事態になるのが目に見えている。

 ローゼマイン、フェルディナンドが望むレベルの加工技術を持つ職人を一人でも多く育成するのが、自分達の負担を軽減させるために必須だとグーテンベルクの面子は肝に銘じていた。

 ただでさえ、前倒しで見積もっていてもそれ以上の速度と規模で事態が推移するのが常なのだ。

 その覚悟で事に当たっているベンノ達を知っているので、フェルディナンドとしてもこれ以上の無理強いは避けたいと考えている。

 第一、上位者の立場からのごり押しで、ローゼマインが大事に育ててきたグーテンベルクを使い潰すような真似をすれば、どれだけ恨まれるか分らない。

 そんな事態はご免だと思っていた。

「アウブ・エーレンフェスト。貴殿は私にとって大事な兄だ。だから私の裁量で出来る事ならば、頼みを引き受けることに不満はない。だが、ローゼマイン様はすでにアウブ・アレキサンドリアとなられた。今後、ローゼマイン様の好意をあてにして、善意を搾取するような真似は婚約者として許さない」

「そんな真似はしていない!」

「ほう?洗礼式を終える前のローゼマイン様にヴィルフリートの勉強指南をさせようとしたのは?私がアーレンスバッハに移ることが確定していたのに、第一夫人を妊娠させ、学生であるローゼマイン様に神殿での神事と魔力供給にくわえ、領主一族としての魔力供給、出版事業に他領と取引が始まる領内の事業、挙句に第一夫人の代わりの社交にヴィルフリートの補佐を求めたのはつい最近だったはずだが?私が留守中、ローゼマイン様に専属の主治医を就けず、補佐役もおかず、どれだけ要求をすれば気が済む?」

「その方の後任として補佐役にはハルトムートを就けたではないか」

「アウブ・エーレンフェストは思慮の足りない馬鹿か?神官長のハルトムートは神殿長の補佐として、神殿業務を助けるだけだ。神殿の外で実権はない。私の不在時、貴族達の利害関係の情報を収集精査し、ローゼマイン様の事業を邪魔しそうな輩を黙らせ、排除し、印刷業だけでなく他領が注目しているポンプをはじめとする領内に広げなくてはいけない事業を滞りなく進めるための根回しや折衝を誰が行ったと?他領との取引を増やすための受け入れ準備の摺り合わせや、生産の拡大を誰が計画立案して、実行の指揮を執った責任者は誰なのだ?」

「フェルディナンド、それは…」

 全ての事業にローゼマインが関わっていた。ベンノを通して、平民達の意見を吸い上げ、問題点や進行状況の確認を行っていた。それらを管轄部署とすり合わせていたのがフェルディナンドだったが、フェルディナンドが不在の状況を一番危惧していたのはローゼマイン以上にベンノ達だった。

 ローゼマインはベンノ達平民に肩入れをしすぎる。だからこそ、貴族側の調整ができる人間が誰になるのかと。

 実際、印刷技術の指導や他領の受け入れなど、直接貴族と関わったからこそ、その尊大な無茶ぶりや領主候補のローゼマインの事業だから導入するという消極的さ、城の文官などは面倒な手間が増えたという態度の者すらいたのだから、不安になって当たり前だった。

 そして、その不安は的中して、城の文官達は積極的に平民とは関わろうとせず、ローゼマインの抱え込む負担が増えた。

「ヴィルフリートはローゼマイン様の事業がエーレンフェストを発展させる重要な位置づけとの認識がなく、事業を理解し助けるどころかローゼマイン様が好きでしていることと関心を持たなかった。アウブ・エーレンフェストは成果の果実だけを所望し、あとは『よきにはからえ』と途中経過を確認すらせず、未成年であるローゼマイン様に丸投げだ。判っていたのか?学生である故に貴族院で過ごす時間と、神殿長であるゆえに神殿での勤めがあるのに、虚弱なローゼマイン様に私以上の仕事をこなせと要求していたのに等しいのだぞ」

 フェルディナンドの冷気を帯びた怒りにジルヴェスターだけでなく、エーレンフェスト側は視線を下げる。

 フェルディナンドには思い出すだけで腹立たしいのだ。アーレンスバッハの礎の部屋で、自分を救いにきたローゼマインが見せた疲労と諦めの表情。

 あれほど本を作るのだと力説し、フェルディナンドが与える本の為なら課題を嬉々としてこなし、嬉しげに分厚い本を抱えて笑っていた。

 欲しいものを全力で取りに行くとキラキラとした輝きを放つ瞳で未来を語っていた幼い娘、いくら注意しても感情がダダ漏れの表情はクルクルと変わり、他領へ移ったフェルディナンドを心配し続けた。

 フェルディナンド自身が他人に尽くす人生を良しとしていたせいか、ローゼマインにもエーレンフェストに尽くすことを要求していた。

 他人の為に自分のことをおざなりにするローゼマインに、ようやく自分の言動がどれほどの負担と犠牲を強いてきたのか自覚したのはあの時だ。

 フェルディナンドとの約束をフェルディナンドが大切に思うエーレンフェストに尽くそうとして、そのくせ王族どころか神々に逆らってもその細い手を必死で伸ばし、たよりなげな身体でフェルディナンドを救おうとして、自身を対価にした。

 もういいだろうと思った。魔石になるところを先代のアウブ・エーレンフェストに救われたから、エーレンフェストのために尽くし、ジルヴェスターを助ける事に疑問を抱かなかったが、ヴェローニカの悪意にさらされる生活に不満が全くなかった訳ではない。

 だから、あの供給の間で自分は一度死んだのだと、もうエーレンフェストに対する義理は果たしたと思えた。これからは命を救ってくれたローゼマインのために生きようと、ローゼマインが笑顔で暮らすために、彼女が望む全てを叶えるために全力を尽くそうと。だから、アウブ・アレキサンドリアとなったローゼマインを煩わせることがないように、エーレンフェストも断ち切る。

「ヴィルフリートはギーベになるらしいな?さっさと廃嫡し、弟妹を鍛えろと私が言ったのに納得せず、あれほど長子のヴィルフリートを次期領主に据えることにこだわっていたというのに」

「仕方がなかろう、ローゼマインとの婚約を解消したのだから。そもそも、そなたがローゼマインと婚約していれば…」

「私がエーレンフェストにいた当時にローゼマインと婚約していれば、我々の望みと関係なく、私がエーレンフェストの領主になり、グルトリスハイトをもたぬツェントが今も在位しているか、ランツェナーベの侵攻が成功してこの地は異国人が略奪し放題の荒れ地になっていただろうな」

 顔をしかめて不満を口にするジルヴェスターをさえぎる様に、フェルディナンドがありえた未来を語って釘をさす。

「ローゼマインに救ってもらったことは理解していますし、そのことについては感謝もしています。ですが、ローゼマインからは叔父上と比べられ、貴族院や領内ではローゼマインと比べられて領主にはローゼマインが相応しいと言われ、誰も私が領主になることなど望んではいなかった。それでどうして領主になれますか?何度も領主になりたくないと父上にはお願いしたのです」

「領主にならず、何になるつもりだったのだ?」

「それは、領主ではなくとも、シャルロッテやメルヒオールを助け、エーレンフェストのために尽くしたいと…」

「何を持って?」

「私に出来ることで……」

 だんだんと困惑の混ざるヴィルフリートの答えにフェルディナンドが溜息をついた。

「まるで答えになっておらぬ。そもそも、その方は祖母であるヴェローニカや父親であるジルヴェスターが領主になると定め、それが当たり前と思ってきた。だから、領主の地位に伴う責任や重みが理解できていないまま、漠然と領主になるのだと思っていたせいで、覚悟が定まらぬのだ。ヴィルフリート、そなたにとって豊かな領地とはどんな領地だ?」

 唐突な質問に、ヴィルフリートは必至で考える。

 もともと、ヴィルフリートはフェルディナンドに苦手意識がある。祖母であるヴェローニカは事あるごとに生まれの卑しい私生児だとフェルディナンドをおとしめてきた。ヴィルフリートはその言葉の意味を知らないまま、フェルディナンドは見下して良い存在なのだと、ほんの数年前まで思ってきたのだ。

 フェルディナンドを尊敬し、懐いていたローゼマインとは違い、今でも怒らせれば怖いというのが先にたつ。

「それは、土地に魔力が満ちて、作物が豊かに実ることです」

「それは最低条件だ、馬鹿者」

 フェルディナンドがヴィルフリートの答えをバッサリと切る。

「ローゼマインにとって豊かな領地とは、平民が気軽に本を購入し、余暇で読書を楽しめることだ」

「それは…」

 さすがは本狂いという感想のヴィルフリートにフェルディナンドが眉を跳ね上げる。

「今は下級貴族程度の収入なら複数の本を購入するのも難しい。それを領内全ての平民が本を買える程度に収入があり、文字が読める程度に知識を得る機会があり、領内に本がいきわたる程に出版されるということがどういう状況なのかわかっているのか?そのためには平民の所得が増えるように産業を育てねばならぬ。平民でも学習ができる場と時間を与えねばならぬ。文字を学ぶことは無駄ではないと広め、教える人間を育てねばならぬ。平民の所得を増やすことで貴族の税収を増やし、利益を過分に搾取せぬように、富が偏らぬように制度を調整して整備し、新しい産業のための開発に資金と人材をまわす仕込みを作らなくてはならぬ。身分に関係なく、余暇を楽しむだけの生活にゆとりがなければ、そもそも娯楽に読書をしようなどとは考えぬ。ローゼマインの考える『豊さ』は何十年も先を見ての豊さだ。その一環として、アレキサンドリアでは、出版だけでなく、神殿で平民達に読み書きや礼儀作法を教える神殿学校を始めた。神殿に対する偏見をなくし、平民の識字率を高め、孤児達の将来に選択を与えたいと考えてのことだ。領主になると言っていたその方は、エーレンフェストをどう導いていくつもりだったのだ?」

 ヴィルフリートに問う形でありながら、ジルヴェスターにも問うていた。

 政変で実力によらず順位を上げたエーレンフェストは、順位を下げた領地には恨まれ、上位領地には所詮下位と馬鹿にされ、同レベルの下位中領地からは運の良さと妬まれた。

 だからこそ、ローゼマインの新しい産業はエーレンフェストの強みになると取り込もうとしたし、貴族院での順位上げを命じた。

 だが、理解できていなかった。功績はすべてローゼマインにあり、その結果を得るためにはどれだけの準備と試行錯誤と、たゆまぬ努力が必要なのか。

 だから手にした果実を扱いきれなくなり、ローゼマインの見ている将来や進捗に追いつけず、周囲に納得させることもできない。

 ローゼマインはエーレンフェストにとっては間違いなく取扱注意な劇薬であり、混乱をもたらしたのも事実だ。

「フェルディナンド、言い過ぎだ」

 未熟なヴィルフリートに求めすぎだととりなしたジルヴェスターをフェルディナンドは睨んだ。

「そもそもの原因はアウブ・エーレンフェストでしょう?父上が高みに登ったとき、前領主夫人であるヴェローニカは隠居させ、奥向きの差配は第一夫人であるフロレンツィア様に任せると、はっき示せばよかったのです」

「しかし、あの時は領主として若輩者である私には母上の助力が必要だったのだ」

「その結果、前領主夫人が現領主より上にいる状況を追認した。これでも、なりふり構わずフロレンツィア様に求婚し、ヴェローニカの反対を押し切って第一夫人に迎えたときは期待したのですが。結局、他にはフロレンツィア様以外に妻を迎えぬと大事にしているようで、ヴェローニカから奥向きの差配の権限を移して、領主夫人としての立場を強化することはしなかった」

「奥向きは女の領域で、領主であっても男の私が口をはさむことではないだろう」

 顔をしかめたジルヴェスターの常識では、奥向きは女性の領分だ。

 だが、フェルディナンドからすれば、厄介事から逃げたようにしかうつらない。

「違うでしょう?母親であるヴェローニカと揉めたくなかっただけでしょう。不正や不当を訴えても、相手がヴェローニカの子飼いの者でヴェローニカが庇えば、事実関係を調べるように命じることなく、うやむやにされた。その結果、アウブには訴えても無駄だと信用を失い、ヴェローニカ派閥の者達は増長した」

「私とて母上を諫めはしたのだ」

 すでにどちらが目上か分からない状況になっていた。アウブであるジルヴェスターが、大領地のアウブの婚約者ではあっても現時点では領主候補生でしかないフェルディナンドに責めてくれるなと言ってるように見える。

 これは過去、散々ヴェローニカを処分しろと言われても、領主に対して不遜という理由では罰せないとグズグズしていた自覚があるからだ。

「口頭で、でしょう。なんら罰を科すわけでも、制限をかけるわけでもない。理をもって説明しても、ヴェローニカが納得しないのは判っていた。だから、母の言う事を信じないのかと迫るヴェローニカを宥めるのが面倒だから、自分もこのようなことは不本意なのだがと、そんな顔をするだけで、何を変える訳でもないまま、時だけ過ぎて、エーレンフェストの実権を握るのはヴェローニカで、アウブは傀儡と思われてきたのでしょう。ライゼガングが領主一族を信じないのは、彼らに対する今までの積み重なった仕打ちのせいだ。ヴェローニカを失った彼女の派閥は、アウブ・エーレンフェストやヴィルフリートに心を入れかえて仕えるのではなく、もう一度返り咲くためにゲオルギーネに付いた。もちろん、名捧げを強制された者達もいたから、側に置けない事情もありました。だが、そこまで事態が進んだのは、ヴェローニカやゲオルギーネとの全面対決を嫌がって放置してきたせいでもある。ヴィルフリートを気の毒だと思うのは、親の不始末を押しつけられた環境だ。もちろん、機会を生かせなかった点に関しては、ヴィルフリートだけでなくアウブ・エーレンフェストにも同情の余地はないと思っていますが」

 ヴィルフリートやジルヴェスターにとっては、優しい祖母で母であったのかもしれないが、彼女に排斥され、苛烈な圧力とかけ続けられた側にとって、彼女は恨まれて当然なのだ。実際、ジルヴェスターはフェルディナンドを守っているつもりだったが、フェルディナンドの食事に毒が盛られるのは止まらなかった。

 確かにジルヴェスターは優しい。だが、彼の優しさでは救えない者が多すぎた。

「私はローゼマインとは違う…」

 冷笑すら浮かべるフェルディナンドに、ヴィルフリートがうつむいたまま反論した。

 今では祖母の違う面も知った。それでも、祖母に似たゲオルギーネやディートリンデに親しみを覚えたのは、ヴィルフリートにとっていまだ『優しいおばあさま』の認識が消えていないせいだ。

 それすら、フェルディナンド達外部からすれば、権力を握り続けるための傀儡ならば可愛いだけで、逆らうようになれば手のひらを返しただろうと冷めた目で見ていたが。

「だから、それは当然だと言っている。そなた、婚約者であるのに自分を助けてライゼガングを抑えてくれないと不満を言ったそうだな?当たり前だ、あれだけ仕事を抱えているのに、どこにそんな暇があった。第一、ライゼガングに領主として認めさせねばならぬのはそなた自身であって、ローゼマインの口添え程度で認められるわけがない。いくら領主になる気がないと訴えても、そう言わされていると思い込んでいる古老どもが反発するばかりで、何も言わず何もしない以外に当時のローゼマイン様にできることなどない。あと、信頼していた側近のオズヴァルトを遠ざけられ、名捧げをしたはずのバルトルトに裏切られてひっかき回され、その混乱を母であるフロレンツィアが黙認して利用しようとしたのにも不満だったか?」

 ヴィルフリートに同情的だった周囲の者に対して、フェルディナンドは馬鹿にしたように冷笑を浮かべて言った。

 その物言いにカッとして、顔を上げたヴィルフリートはフェルディナンドを睨んで言い返す。

「そうです、私が失点をおかしたあとも、一緒に頑張ろうと言ってくれたオズヴァルトは私の側近から外されました。私に名を捧げたはずのバルトルトは、またもや私を裏切った。そして母上も私を助けるどころか、自身の基盤強化の為に私の周囲が混乱するのを黙認し、利用しようとした。もはや私は誰の言葉を信じればよいのかわからなかった!」

 以前、ヴェローニカ派閥の子供たちに白の塔へと誘導されたことがあったとはいえ、ヴィルフリートは基本次期領主として大事にされた記憶しかない。それだけに、側近達の言葉も信じられず、周囲は自分の至らなさを責めているように思えてしかたがなかった。ライゼガングはヴェローニカに育てられたということだけで拒否反応を示す。どれだけ努力しても無駄ではないかと、今までの不満を吐き出したヴィルフリートにフェルディナンドが呆れたように首を振った。

「少しは変わったかと思ったが、嫌なことからは逃げる怠惰で愚かな性根は変わらぬな」

「叔父上!あなたは信頼していた者に裏切られる辛さがわからないのでしょう!」

「馬鹿馬鹿しい、側近など裏切るものだ。敵の息がかかったものが味方面で近付いてくるなど日常的に起こる。側近の動向に気を払って裏切りを早期発見したり、忠誠を得られるように努めたり、側近を信用せず常に警戒したり、自衛するのが当然ではないか。裏切りに気付かぬそなたが愚かであり、裏切られたそなたが主人として怠惰だっただけだ」

 淡々とした口調に、それがフェルディナンドにとっての当たり前だと知る。

 以前にも同じセリフを聞かされたことのあるローゼマインは「そのような殺伐とした関係は遠慮いたします」と横で溜息をついたが、ヴィルフリートやジルヴェスターは息をのんだ。

 命を狙われることがあたりまで、側仕えが信用できないとなれば、食事すらまともにとれない。あれほどフェルディナンドが名捧げをした側近以外を側におかず、ローゼマインが用意した食事以外まともに口にしない意味を知る。

「オズヴァルトを側近から外された?ならばこれまでどおり側に置くために何をした?どうせ嫌だ嫌だとごねただけであろう」

「父上が、皆が相応しくないから側近から外すと言ったのに、どうすれば良かったのですか!」

「ローゼマインは下級貴族であるローデリヒやフィリーネは領主候補の側近として相応しくないと言われたが側に置くためにあらゆる方法をとったぞ。こじつけのような理由さえ並べ立て、側近として側に置く必要性を説き、当人にも側にいて欲しいと頼んだ。家格、経歴から妬まれ中傷される覚悟をした上で、彼等も側近に相応しくあろうと努力を続けている。言っておくが、古参のダームエルの家格は下級貴族の中でも下で魔力は上級に到底及ばぬ。それでも中級並みには増やし、魔力消費が少ない戦い方を模索し、鍛錬も怠らない。そして、事務仕事もこなせばローゼマインの大事にしているグーテンベルク達との調整も行える。血筋と魔力量しか取り柄がない上級武官に比べて、よほど実務面で有能だ。そなたは周囲の目や中傷に耐えても仕えたいと思わせるだけの、部下の努力に見合うだけの主人だったのか?そなたは自分を白の塔に誘導したヴェローニカ派の子供達を裏切り者と排除した。当時、ヴィローニカ派は最大派閥だった。親に言われてとりあえず側にいた者、次期領主の覚えが良ければ自分の利になると思った者、領主となるそなたを支えようと思っていた者、立場や心情の差など一切考慮せず、これまで側にいた者達を自分を陥れるのに加担したと敵視した。だが、分かっていたのか?彼らがその方を支持してきた派閥であり、彼らの親が顔色をうかがい、頭を下げていたのはその方ではなく、実質領内政治を握っていたヴェローニカだ。ヴェローニカの意に反し、そなたの不興を買えば側近候補からは外される。だから、必要なことであってもそなたが嫌がることは無理にすすめない。失点を報告すれば自分達の評価が下がるから、ジルヴェスターやフロレンツィアに不都合な報告はしない。勉強は嫌だ、フシェピエールの練習は嫌いだ、そんなことをしなくても自分は次期アウブだと、次期アウブの自分に命じるのかとその方は借り物の権力を振りかざして口を閉じさせ、彼等は自分達は忠告したのに聞き入れてもらえなかったと言い訳を自分に許した。彼等が保身に走ったのは、そなたやジルヴェスターには忠告しても無駄だと思われたせいだ。その結果、その方は洗礼式前であってもまともな教養が身についていなかった。どう考えても、そなたの立場や将来を思ってのふるまいではないが、その事態をまねいた責任がそなたにまったくなかったと言えるか?」

「フェルディナンド!言い過ぎだ」

「アウブ・エーレンフェスト夫妻がまだヴィルフリートに教えるのは酷だと、現実を教えてこなかった弊害がこれだ。ヴェローニカを白の塔に入れて何年経つ?ヴィルフリートを領主にしたいなら、どうして二人でそのように教育してこなかった!まさかローゼマインが補佐をすれば良いと思っていたのではあるまいな?領主としての仕事も、第一夫人としての社交も、印刷に服飾などの新しい産業育成も、すべてローゼマインに背負わせる気だったのか?」

「だが、出版などはローゼマインでなくては分らぬことも多いではないか」

 実際、ローゼマインはジルヴェスターが付けようとした文官は外し、自分で育てると言ったのだ。ただ、ローゼマインが文官を一から育てるには時間がなさ過ぎた。中央に移るとなってからは引き継ぎに追われて、育てるどころではなかったからだ。

「ならば、教えを乞え。そうすれば、事細かに、延々と、嬉々として語ったろう。フン、どうせその方達だけでなく、城の文官達も未成年の彼女に教えを乞うなど考えもつかなかったのだろうがな。彼女が印刷事業に関わる文官は自分が育てると言ったから、任せきりにしていたのだろう。髪の艶、糸を編んで作った髪飾り、新しいお菓子に新しい曲、エーレンフェストの成績が急激にあがった理由、他領の者達から探りをいれられても、それは義妹のローゼマインが考えたことで、自分にはわからないと答えたか?実際、知らなければ情報の漏らしようもないだろうが、その結果は領内の産業に無関心で無知な領主候補生という評価だとわかっていたのか?だから、エーレンフェストに、ヴィルフリートにローゼマイン様はもったいないと言われることになったのだ。その方の器量ではローゼマイン様の才能は扱いきれないと。勉強の成績だけで、ローゼマインが領主に相応しいと言われていた訳ではない。そなたが領主の責務について無知過ぎたのだ。まだ子供だからと、学生の間ぐらいは自由にさせてやれと領主教育を怠ったジルヴェスターの責任でもあるがな」

 ジルヴェスター達はヴィルフリートは貴族院で頑張っていると、よくやっていると思っていた。それは洗礼式前の駄目駄目さを知っているから、その成長を喜んだ。

 だが、ローゼマインの上に立つというなら、それでは駄目だということに気付けと言うフェルディナンドの冷めた口調は断罪にも似ていた。

 子供のうちはと、ジルヴェスターはヴィルフリートに責任を負わせるのをためらった。

 だが、その一方でローゼマインには普通の大人以上の責任を負わせている。

 養女だから冷遇したという訳ではない。ただし、無意識のうちに実子であるヴィルフリートとローゼマインとでは差があった。

 もちろん、ローゼマインが年齢不相応に優秀で、フェルディナンドが手伝うだろうと見込んでいたことも大きいが、フェルディナンドが不在となってからもローゼマインの負担は減るどころか増えたのだから、気遣っていたとは到底思えない。

 自分が姉と争った経験がある故に、兄弟で争わせたくないと、ヴィルフリートを後継に決めたが、それなら後継に相応しいと認めさせるために教育も施すべきだったのだ。

「ヴェローニカの母ガブリエーレは大領地であるアーレンスバッハの領主候補生である矜持から、馴染む努力をしなかった。自身の立場を強めるためにアーレンスバッハ流を広めて、連れてきた子飼いの者達をエーレンフェストの貴族に縁づかせた。第二夫人に落とされたライゼガングの姫との確執を見て育ったヴェローニカは、自身は大領地アーレンスバッハの領主一族の血を引いているのだと、その血筋を誇りライゼガング閥を目の敵にした。前アウブの第一夫人となると、母のアーレンスバッハ閥を引き継ぎ、自身の立場を強化するために、子飼いの者達を重用して優遇する一方で、反発する者達を冷遇し、中枢から排除した。敵対すれば毒を盛る、いわれのない失点をあげつらって非難し、役職を解任するなど日常茶飯事だ。最初から対立していたライゼガングなどは別として、保身のために彼女の派閥に属した者もいれば、精一杯の抵抗で中立派だった者もいる。ヴェローニカが失脚したのなら、そなたは派閥を切り崩し、自分に味方する者をとりたてればよかったのだ。名捧げをしていた親世代ではなく、世代交代のときヴィルフリート自身を支えてくれる同世代の者達を引きたてれば良かった」

 実際、ローゼマインは、ヴェローニカ派の子供達に魔力圧縮を教えることで、側近に迎えることで次代の者達を味方にしたいと訴えてきたぞ。

 冷厳な視線は変わることなく、肩を落としたひどく頼りないヴィルフリートを見降ろしている。

「そのようなこと誰も」

「教えてくれなかったか?だろうな。実際、ヴェローニカの傀儡と思われてきたジルヴェスターは能力と資質に不信をもたれて貴族達を糾合できていないからな。だが、次期領主だというならヴィルフリートの周囲が教えるべきだったのだ。それが出来ていないのは、確かに環境が悪いのだろう。わかっているのか?連座回避の助命のために名捧げを条件としたが、最初にローゼマイン様に名捧げをした者は、主であるローゼマイン様に信頼されたいからだと言ったぞ?自身が襲われ、二年もユレーヴェに浸かることになったローゼマイン様だけが、ヴェローニカ派の子供であってもその努力と成果を平等に評価し、親は親だと庇護してくれたと。いつ目覚めるとわからないまま、二年もユレーヴェに浸かっていたせいで、側近の数は少ないが、自身でローゼマインに仕えると決めた彼等は親よりも、親族よりもローゼマイン様を選ぶ。マティアスは実際にゲルラッハで実の親に剣を向けている。ヴィルフリート、そなたは名を捧げてくれたバルトルトに何を与えた?信頼も忠誠も捧げられて当たり前と思っていなかったか?ランプレヒトには妹のローゼマインや派閥のライゼガングを抑えきれないのかと不満をぶつけたらしいな?ライゼガング閥のハルデンツェル家側からみれば、ランプレヒトは彼らが望んでそなたにつけたのではなく、ヴェローニカに人質にとられたのも同然だ。ヴェローニカは騎士団長の地位をヴィルフリートに仕えるランプレヒトではなく、子飼いだった第二夫人の子であるニコラウスに継がせる気だったのだからな。ヴェローニカが失脚したあとも、自分の立場を悪くしても、そなたに仕えることを選んだランプレヒトに感謝したのか?そなたの側近達は、親よりも一族よりも、ヴィルフリートを主に選ぶと言ったか?言われても支えられたか?親や親族と決別すれば、支援も失う。貴族院に通うにはそれなりの金銭的負担が伴う。親を捨ててもローゼマインに仕えると言った子供達に、写本や情報の買い取り、神殿での仕事の手伝いでローゼマインは金銭的援助をしていたぞ?素材の収集も盛大に祈りを捧げて回復させ、武官には護衛の訓練だと言って、文官候補達が採取にでかけやすいように誘導していたな。もともと金銭的に余裕がなく、子供部屋で絵本やカルタが買えぬ子供達でも勉強できるようにと、お話の収集と引き換えに貸し出すことを始めたのが情報の買い取りの発端だったか。援助するならその場限りではなく、継続的なもので無ければ意味がない。ローゼマインは知恵を絞り、周囲を巻き込んで事態を大きくするが、自分一人で出来る事は限界があると理解している」

「ですから、領主にはローゼマインの方が相応しいと思っています」

「根本が分かっていない。そなたにとってヴェローニカは優しく甘い祖母だったのだろう。普段、交流の機会が少ない両親よりも側にいる祖母の方が近しかったのだから、ヴェローニカを慕わしく思っていたのも当然で、ヴェローニカに似たゲオルギーネやディートリンデに親しみを覚えることまでは否定せぬ。だが、ヴェローニカは敵対する者には容赦がなかった。毒を盛られて身内を失った者や、無理やり子飼いの者との婚姻を強要された者、事実関係を調べることもなくヴェローニカの恣意で処罰された者にとって、『本当は優しい方だった』と言われても納得できるわけがない。逆に怒りをあおり、その方がアウブになれば白の塔から出して、祖母に言われるままに従う将来を危惧したろう。実際、ジルヴェスターが言う事を聞かなくなれば、傀儡としてその方をアウブの座につけ、自分は変わらず実権を握り続けたであろうな」

「おばあさまがそんなひどい事をされるはずがない!」

 思わず席から立ち上がってヴィルフリートが反論する。そこまでお祖母様をおとしめなくてもという思いだったが、ジルヴェスターやフロレンツィアは苦痛をこらえる顔で、アレキサンドリアのエーレンフェスト組は苦々しい顔をしていた。

「エックハルトの妻と子はヴェローニカに盛られた毒で高みにのぼった。エルヴィーラがライゼガング派閥であり領主夫人に味方していたせいで、排斥の口実を与えぬように気を張り続け、息子のランプレヒトをその方の側仕えにするようにと命じられ、子飼いであったトルデリーデを第二夫人に送りこまれ、ゆくゆくはニコラウスに騎士団長の座を譲る様に圧力をかけられていたが?ゲオルギーネが健在の間、トルデリーデは自分の息子のニコラウスに次期当主はお前で、騎士団長になるのだと言い聞かせていたぞ。ランプレヒトは確かにそのほうの側近だが、領主夫人であるフロレンツィアを推すエルヴィーラに対するヴェローニカの嫌がらせが止まった訳でもない。この状況が長く続いたエルヴィーラの実家であるハルデンツェル家が、そなたを後援しないのがそんなにおかしいことか?」

「まさか…」

 フェルディナンドの言葉にヴィルフリートがショックを受けて、力のない声でそう呟くとトサリと椅子に落ちるように座った。

「確かにそなたは素直な質で、言われれば周囲の意見も聞くし、努力が出来ない訳でもない。その点は評価している。だが、あまりにも自分に都合の良い方に捉え過ぎだ。ジルヴェスターは優秀な側近をそなたにつければ、領主として問題なくやっていけると考えていたが、その『優秀な側近達』が本気でそなたを支えてくれる保証はない。ローゼマインは養女として領主候補生になった。だから、自身にその価値があることを、優秀さを示す必要があったから、結果を出した。その方は失点があるにも関わらず許され、領主候補生に留め置かれた。ならば、惜しまれるだけの優秀さを示すべきだったのだ。ローゼマインに成績で勝てぬなら、他に勝てるモノを探したか?努力しても認めてもらえぬというが、そなたが怠惰に過ごしてきたのは何年だ?エーレンフェストにもたらす利益を、ライゼガングに与える利益を、側近達を心服させるだけの何かを、そなたは示したのか?他者の求める利益を与えたのか?」

「叔父上…」

「言っておくが、ローゼマインとて仕えていた者に裏切られたことはあるぞ。洗礼式前で、神殿で隠されて暮らしていた頃、身元も不明で神殿長だったベーゼーヴァンスから平民上がりと見下され、それを真に受けた青色神官達からは隋分と軽んじられていた。魔力量を考えれば、そのあたりの平民であるはずがないことなどすぐに分りそうなものなのに、ヴェローニカの弟で領主の叔父であるベーゼヴァンスが平民だと言えば神殿の青色達はそれに同調した。そして、ローゼマインよりも神殿長の方が力があると、甘言に騙されてローゼマインを裏切って余所者にローゼマインを引き渡す手伝いをした灰色巫女がいる。領主の養女となって神殿長に就任した途端に態度を変えた青色もいれば、今までのように不正が許されず利益が減ったことに不満を持つ者もいた。襲撃を受けた時だけでなく、神殿長の持ち物に遅行性の毒を仕掛けられたこともある。人の身に過ぎた神の祝福のせいで、あやうく高みにのぼりかけたこともあったな。決して、ただ恵まれていた訳ではない。現状を変えようと、欲しいものを掴もうと努力し、その結果失ったものあれば、他者の恨みをかったこともある。最初は本を作る為の資金と伝手を必要としてだったが、大切な者達を守るために地位と権力を望んだのだ。だから、彼女が助けると、守ると言ったら、それは相手が神殿の灰色であろうが孤児であろうが自分を敵視した者の子供であろうが、関係なく手を差し伸べる。その救いを信じた者はローゼマインを裏切らない。人質を取られて脅されても、ローゼマインに助けてくれと訴えれば助けてくれると信じているからだ。訴えれば身分や立場に関係なく話を聞いてくれるとわかっているからだ。ヴィルフリート、信頼を得るのは日々の積み重ねだ。信用は一朝一夕では得られないが、失う時は一瞬だ。そなたは今まで周囲となにを積み重ねてきたのだ?積み重ねるものがなければ、今度はギーベとして向かった先で、また裏切られたと嘆く事になるぞ」

 すでにエーレンフェストを離れたフェルディナンドは領政に口をはさむ事が出来ない。だからヴィルフリートに向かって言いながら、ジルヴェスターとフロレンツィア、その周囲に聞かせる。

 ヴィルフリートは次期領主からは離れた。

 シャルロッテは女子であること、性格が補佐向きであること、手にしたシュタープの質が良くない事などを鑑みれば、次期アウブに推すには弱い。

 こうなると、今神殿長として神事を行って加護を増やし、シュタープの取得時期が学年の後半となった弟のメルヒオールが一番有力となる。

 だが、今までヴィルフリートが次期アウブと定められており、ヴェローニカが健在だったころは年が幼かったこともあって後ろ盾が弱い。

 今の側近にも有力貴族はおらず、中堅どころというあたり。

 ただ、上位領地のアウブとなったローゼマインが妹のシャルロッテや弟のメルヒオールを可愛がっていたことは良く知られている。

 ローゼマインにすれば領主となる婚約者のヴィルフリートと弟妹では扱いが違うのが当然だったが、それを知らぬ者からすれば弟妹のほうが大事にされているように見えたし、実際シャルロッテ側はローゼマインが後押ししてくれると思っていたこともある。

 メルヒオール側にすれば、ローゼマインの後押しは欲しいが、上位領地に口出しされたくないという心境だ。

 そしてヴィルフリートが領主レースからおりたことで、エーレンフェストの勢力図も変わろうとしている。

 特に立場が面倒なのが、ローゼマインの表向き両親であるエルヴィーラとカルステッドであり、出版も行っているエルヴィーラの実家ハルデンツェル家。

 ヴェローニカの異母弟の孫である当主はヴェローニカが実権を握っていた頃は冷遇されていたが、彼女が排除されてからは気持ちが大きくなったライゼガングを抑えるのに奔走した。

 もともとエルヴィーラが当主夫人であるフロレンツィアを支持していた勢力の母体であったので、現在その影響力は大きい。

 その上、娘であるローゼマインはアウブ・アレキサンドリアとなり、婿入りするフェルディナンドとも冷遇時代からの知己で、他者に比べて信用もされている。

 どうしても旧アーレンスバッハを抑えるためにも、エーレンフェストの後押しとしても、アレキサンドリは無視できる存在ではなく、そのアレキサンドリアと一番太いパイプを持つのが領主夫人ではなくエルヴィーラというのが厄介だった。

 フロレンツィアの実家であるフレーベルタークは、ジルヴェスターの姉の嫁ぎ先でもあり、縁としては深いのだが、フレーベルタークは政変から順位を落とし、エーレンフェストに魔力の小聖杯の供給を依頼するほどに土地がやせていた。

 その上、領主会議でも後押しをしてもらえず、エーレンフェストの貴族達の間ではフレーベルタークは自領の要求ばかりで報いてくれないという認識だ。

 そしてフロレンツィアも長くヴェローニカに対抗できず、派閥の取りまとめはエルヴィーラに頼ってきたため、領内での地位があまり高くない。

 外に出れば所詮政変で地位を上げただけの下位領地という評価はまだ拭いきれておらず、聖女ローゼマインを失ってどれだけ順位を保てるかと、意地の悪い噂はすでに流れている。

 これまで以上にエーレンフェストは舵取りが難しいのだ。

 それなのに、内輪で揉めている余裕などどこにもない。

 メルヒオールの教育に失敗すれば、それこそ後がないと自覚しろという心配からくる叱責を込めたフェルディナンドの言葉は、傍で聞くだけなら苛烈だった。

「ヴィルフリート、そなたは自分がアウブになることを誰も望んでいないと言ったな?そなたはアウブにと望まれていたのだ。ヴェローニカには自身の基盤を強化する為に自分の意のままになる傀儡として、ヴェローニカの派閥からは今後も自分達を引きたててくれるアウブとして、ジルヴェスターは弟妹と争うことなく自分の跡を継いで欲しいと思っていたし、ゲオルギーネに抑圧されていた者からはゲオルギーネとその派閥の専横を排除しアーレンスバッハ出身ではない者達にも利益を分配するアウブにと。ただ、その方が彼らの望むどの姿にもなれず、自分達に利益をもたらさぬと見切られたのだ」

 派閥は力にもなるが、維持しようとすれば振り回される。

 後押しをする派閥をもたぬゆえに、フェルディナンドはヴェローニカとその派閥を排除する際大鉈をふるうことが出来た。

 彼らの助力を最初から当てにしていないからだ。

 ローゼマインは派閥ではなく、自分の事業に賛同する協力者として取り込んでいく。

 本狂いと皆が溜息をつく半面、ローゼマインの基準はぶれない。だから、弱者ほどローゼマインの庇護を求め、ローゼマインに尽くす。

 彼女が助けると約束したなら、それは契約を交わさずとも守られると知っているからだ。親の罪を問わないとローゼマインが言えば、自身の献身を受け入れてくれると理解しているから、大人の都合で振り回され、使い捨てにされかけた者はローゼマインの庇護を望んで親を捨て、親族とすら喜んで縁を切る。

 親に捨てられた神殿の灰色神官は特にローゼマインへの傾倒が顕著だ。

 そしてフェルディナンドとローゼマインの下で働いていた者は、灰色神官や孤児であっても有能だ。

 逆に業務の処理なら青色神官より有能なのが当たり前ともいえる。

 ローゼマインが、使い捨てにされることがないように、自身の将来を選べるようにと、教育を施してきたのだから当然だ。

 そして、メルヒオールは素直で努力を怠らない性格で、ローゼマインを手本として頑張ることに疑問を抱かない。

 だから、神殿にいる時間が長いのだが、そのせいでメルヒオールの側近達のほうが焦っていた。どうみても、書類の処理能力は今まで蔑んでいた神殿の者達の方が上なのだ。

 孤児院長に就任したフィリーネもフェルディナンドが鍛えていたので、報告書の取りまとめや計算処理をこなし理解する。

 なまじ、実家が貧しかったので、孤児院の維持にかかる経費バランスもきちんと把握している。

 まだ貴族院に通う成人前のフィリーネでもそれだ。彼女につけられた灰色神官は、彼女を良くサポートしているし、ダームエルは訓練の傍ら、孤児院や孤児院内にある工房と商人達のつなぎの役目を果たしている。

 カルタや絵本を与えられて文字の読み書きに不自由せず、失敗した紙を束ねた『メモ帳』を使うことが当たり前で、ローゼマインから『書字板』を贈られた者がいる彼らと、今まで木札にメモをとることすらあまりなく、文章を読む事に慣れていないメルヒオールの側近達では差があって当たり前なのだが、貴族であるというプライドから、平民に劣ることを認められず、どうにもメルヒオールの傍から排除する傾向がでていた。

 真摯に言葉を尽くしても届かないと思えば、灰色達は口をつぐむ。

 貴族院を卒業してもいないフィリーネが、孤児院長という役職にあることで、嫌みを言う者もいる。

 どうにもやりづらくなってきていると、ダームエルなどを通して聞いているローゼマインは、徐々に灰色を買い取ってアレキサンドリアに移すことを決めていた。

 工房で働く孤児達も、フィリーネが移動する際に進退を尋ねて、希望者はアレキサンドリアに移すつもりだ。

 灰色だから孤児だからと、彼らの進言をきかぬなら、自分達でやれば良いと、ローゼマインは突き放していた。

 メルヒオールの側近達が苦労する分には何とも思わない。それよりも、工房の孤児や灰色神官達が嫌な思いをする方がローゼマインには気分が悪かったのだ。

「皆、買いかぶり過ぎなのです。慈悲深いと言われますが、別にそのようなことはありません。他人に関心がないだけです。ただ、身近なところで苦しんでいる者がいると思うと、心安らかに本を楽しむことができません。だから、わたくしの心の平安のために、助けただけです。野生の獣でも赤子のうちは餌をとれるようになるまで面倒をみます。ならば、一人で生活できるように導くのは大人の役目でしょう。神殿の孤児院はひどかった。青色が減って下げ渡される食事は満足にいきわたらず、人手も減って入浴や着替えの面倒をみる者もいない。ただ薄暗い部屋で死をまつだけの子供達がいると知って、その横で呑気に本が読めなかった。ハッセの村も、神殿長とつながっていた村長の増長がまねいた罪を村人全部に背負わせるのはどうかと思ったし、親の罪を子供が連座で処罰されるのも納得いかなかった。罪をおかしたのであれば処罰されるべきだと思うけれど、それは個人に帰すると思うのです。失敗は反省してやり直せばいい。何度でも人は変われるし、やり直せると思っています。わたくしはその機会を与えたいと思っただけで、強制したい訳ではございません。ですから、ヴィルフリート義兄上が、領主になりたくないというなら、ならなければ良いと思います。ギーベとなって成功するか、失敗するかどうかはやってみないとわかりませんし」

 ローゼマインの言葉に、ヴィルフリートだけでなく、ジルヴェスターも言葉を失った。

 ローゼマインにとって、ヴィルフリートは兄という肩書があっても、フェルディナンドのように『家族同然』ではなく、その将来に関心がないのだと知ったからだ。

 ローゼマインは身内認定した者はことのほか大事にする。特に幼い者には弱い。

 それを知っているローゼマインの側にいる者達は、ヴィルフリートとその側近を近づけなかった。

 ローゼマインの好意や助力を当たり前として受け取り、あてにされるのが目に見えていたからだ。

 自分の問題ならば自身で解決すべき、という目でヴィルフリート達を見ていたし、二度もヴィルフリートを廃嫡から救ったのだから、これ以上ローゼマインが手助けする必要はないと考えていた。

 そして、根本的なところで、人の心の機微に疎いヴィルフリートは、ローゼマインの周囲から警戒対象としてみられていたことに気づいていなかった。

 ローゼマインがヴィルフリートを疎んじた態度を取らなかったし、すぐに倒れ、騒動を大きくするローゼマインは手のかかる妹という認識だったからだ。

 ヴィルフリートの側近達はローゼマインがヴィルフリートを見捨てれば、彼が領主になる見込みがなくなることを理解しており、どうして彼女がヴィルフリートを後押ししてくれないのかと不満だった。

 ここでも、彼女の一番の望みが領主夫人ではないと判っている者と判っていない者で誤差が生じていた。

 エーレンフェストで一番不幸なのは、ローゼマインの本質を理解していないまま、彼女のおこす騒動に巻き込まれた者達かもしれない。

 ヴィルフリート達は無意識にローゼマインを下に見て、ローゼマインに仕える者達を軽んじていることに、当人達が自覚していなかった。

 次期領主から領主候補生になっても、まだジルヴェスターがヴィルフリートを後継にしたがっていることは透けていた。

 だから、ヴィルフリートもその側近達も立場は変わったとは本当の意味では思っていなかった。

 ヴィルフリートがローゼマインより上位者であると、その意識があるからローゼマインの側近達に頭越しに命令をしたりする。

 ローゼマインが引き起こしたのだからと、王族や上位領地とのお茶会や付き合いなどを丸投げする態度にブリュンヒルデは憤慨したが、今もエーレンフェストに残っている者達はいずれ移動するので、とおざなりにしか対応をしていない。

 ヴィルフリートがギーベになったところで、その態度が変わるとは思えない。

 どんなに尽くしたところで意に添わなければ報われない、仕える甲斐のない主という認識が薄まる事はない。

 逆に領主となる芽がなくなったヴィルフリートに仕える側近達が、誰につけば良いのか迷走している。

 昔はローゼマインの側近達に横柄な態度をとっていた者が、今では卒業後アウブ・アレキサンドリアに仕えるのが確定した側近候補達にどんな態度を取ればいいのか判らなくなっていたのだ。

 フィリーネの父であるシッカークと義母ヨナサーラは、態度を豹変させて大事な娘を神殿にはおいておけないと言いだしたが、ローゼマイン様に与えられた役目を投げ出すことは出来ないとフィリーネは実家にもどる事を拒否した。

 今までのフィリーネに対する冷遇ぶりをしっているエルヴィーラなどはあからさま過ぎると呆れ顔を隠さなかった。

 実際、フィリーネの父や義母の子供は、エーレンフェストでの出世は望めまいと周囲からは思われている。

 ローゼマインの心証が良くない上、現在最大派閥であるエルヴィーラが自身の派閥に彼等をいれようとしないのだから、周囲もそれに習う。

 ここにきて、ようやくフィリーネの保護者から外されるとはどういうことか理解したようだ。なんとか関係改善をと望んでも、フィリーネの方が勝ち馬に乗ろうとする彼等を許さない。シッカークは今まで真面目に勤めて来たのにと、周囲の視線が冷たくなっていく状況を嘆き、親子の情に訴えたが、そこには神殿へと送ったコンラートは含まれておらずフィリーネはすでに時の女神、ドレッファングーアの紡ぐ糸が重なる日は訪れないと会おうともしなかった。

 実際、フィリーネに対するローゼマインの厚遇ぶりは、その家格を考えれば破格ともいえるもので、卒業をまってアレキサンドリアに移るというのも、フィリーネの独りよがりな願望などではなく、ローゼマインが待っていると直接声をかけているのを貴族院の生徒達が見ている。

 領主候補生どころか、上位アウブの側近に取り立てられることが確定しているフィリーネは、下級貴族の者達からみれば努力すれば取り立ててもらえるという希望であり、中級や上級にすれば嫉妬の対象だ。

 未成年であるからエーレンフェストに残った者達は、卒業すればローゼマイン様の側にとことあるごとに自分を鼓舞するように口にし、優秀な成績を取り続けている。

 エーレンフェスト内に、いまだローゼマイン閥ともいえる集団が在籍していた。

 フェルディナンドとて、エーレンフェストに対する愛着がない訳ではない。

 それでも、自分の手で守れるものには限りがある。

 だから、今度こそ間違えない。この破天荒な女神の化身であるローゼマインと、彼女が大事に思う者、そして図書館都市とアレキサンドリアに住まう者達をまず守ろう。

 離れても家族として心配している。だが、ローゼマインよりエーレンフェストを上に置く事はしないし、ローゼマインにもさせない。

 完全な決別は、フィリーネ達、最終組を引取った後だ。

 それでも、それまでローゼマインの優しさをタダ食いはさせないと、フェルディナンドは社交用の笑顔を浮かべて、今季の取引高についての資料をエーレンフェスト側に手渡した。

「それではそろそろ身内の話はおわりにして、領主としての話をいたしましょうか?」

 エーレンフェスト紙ではない。幾分厚いが、罫線入りのつるりとした紙が、アレキサンドリアで生産された物とわかって、ジルヴェスター達は青褪めたのだった。

WILD FLOWER