紫翠楼/WILD FLOWER

触れぬ指先 恋の淵1名探偵コナン

新一×志保

 周囲の人々の視線と談笑の声を認識しながら、志保は当たり障りがないように社交的な笑みを浮かべて会話を交わす。

 もともとオシャレは嫌いではなかったが、組織にいたころはオシャレをして出かける場所がなかった。

 洋服を選ぶ楽しみなど、たまに会う姉との面会日ぐらいなもので、学会などは『宮野志保』が実在していることを示すために、組織の指示で最小限の参加だったし、志保の年が年だったから、侮られない様に可愛い衣装よりもかっちりとした衣装を着るように指示され、用意されてもいた。

 普段は研究室に籠っているから、衛生的で袖が汚れなければ良いという感覚で、クリーニングから戻ってきた衣装を適当に着て白衣を羽織れば事足りた。

 だからこそ、フサエが用意してくれたドレスは嬉しい反面、どこか気恥ずかしい。

 7センチのヒールは、足首が綺麗に見え、背筋が伸びるのだと言われた。

 猫背では似合わないと思えば、姿勢も変わる。

 顔を上げて、視線を真っすぐに、化粧と髪を整えてくれたスタイリストからも言われたことだ。

 未だに、自分がこういう場に相応しいとはなかなか思えない。

 人付き合いは苦手な方だし、相手を楽しませる会話も正直思いつかない。

 それでも、赤井と降谷から、宮野志保として生きていくなら必要だと言われた。

 一企業、一個人でどうこう出来ない程に、『宮野志保』の価値を高める必要があるのだと。

 秘密がばれた時、志保を手元に置こうとする者が脅してくるかもしれない。

 その時、一個人や一企業が志保を囲い込むなど不可能な程に、他者に影響力を持つ存在でなくては。

 君の才能と実績は、志保を守る盾にもなるし、その身を脅かす鉾にもなる。上手く使う術を学びなさいと、優作にも言われた。

 他人と関わることが苦手だった自分が、曲がりなりにも社交が出来るようになったのは、灰原哀として過ごした時間があったからだ。

 少年探偵団に半分強制的に参加させられて、子供達に翻弄された灰原哀としての生活。

 どうして危険なことに自分から近づくのかと、危ない目にあっても懲りるどころか、駄目だと何度言っても聞かない元太達に「いい加減にしなさい!」とキレかけたこともある。

 危険だからといくら止めても、事件と聞いて真っ先に飛び出す江戸川コナンがいるから、子供は危ないという制止を聞き入れず、自分達だって役に立つと言い張る彼らに、頭が痛くなった。

 子供ならではの傍若無人さに腹立たしい思いもしたが、彼等はどこまでも真っすぐに自分達は何者にもなれると明日を信じていた。

 何の疑問もなく、『正義の味方』を自称し、悪者は退治されるのだと信じていた。

 能天気なまでに何とかなる、と言って事件に首を突っ込み、窮地に陥ってどうしようと泣きそうな顔でコナンや哀の顔をみる。

 それみたことかと、そう思う反面、彼等を見捨てる気は微塵も起きなかった。

 何の利害関係もなく、純粋な好意によって差し出される手。

 ありがとうの一言で喜ぶ見返りを求めない善意。

 宮野志保が、いつしか諦めてしまっていた未来を、人は裏切るものだという認識を、彼らは真っ向から否定する。

 名前など、個体識別番号程度に思っていたのに、女探偵をもじってつけた適当な偽名なのに、「哀ちゃん」とそう呼ぶことを歩美は特別だと考えて、その一言にありったけの勇気を込めて呼んでくれた時から、「哀」という名前が特別なものに変わった。

宮野志保に戻るとき、偽名である灰原哀の名前に愛着がわいたのが不思議だと言ったら『愛しい』《いとしい》は《かなしい》とも読む。君の名には、悲しみだけではなく、誰かに大切に思われていることも込められているのだよ、と柔らかな笑みを浮かべた優作が教えてくれたが、その言葉の意味を、歩美に名を呼ばれたあの時知ったのだと思い出した。

 長い間、志保にとって他人との関係は、利用し、利用されるものだった。

 そんな志保にとって、彼女達は、志保が灰原哀を通して初めて得た友達だった。

 だから、危険だと解っている状況でも、歩美達を見捨てることは出来なかった。

 笑ったり怒ったり、心配したり嬉しかったり、感情が動き、表情を変えるようになった哀に、コナンは大分人間らしくなったじゃねぇかと笑った。

 組織崩壊後、灰原哀として生きるのではなく、宮野志保として罪を自覚して生きることを選んだのは、間違いなく歩美達と過ごした時間があったからだ。

 灰原哀の両親が死に、アメリカの親戚に引き取られることになったと説明したとき、このまま阿笠博士のところで暮らせないのかと、哀との別れを惜しんでくれた彼等に、説明できない心苦しさを覚えたけれど。

「無理よ、だって私は子供だもの」

「哀ちゃん…」

「灰原さん」

「灰原」

「大人の庇護が無ければ学校に行くことも出来ないのよ」

「だったら、このまま博士の家で!」

「駄目よ、博士は法的根拠をもたない他人で、親戚の人が引き取ると言った以上、その資格を認めてもらうには裁判所で認めてもらう必要があるの。それに、子供一人成人まで養うのにいくらかかると思ってるの?家が一軒買えるわ。厚意に甘えて二、三日キャンプに連れていってもらうのとは訳が違うのよ」

 宮野志保には個人資産がない。もともと組織にいたころ、逃亡を警戒した彼らは、志保に現金を与えないようにしていた。新薬に関する特許も、組織のダミー会社が登録していたから、志保個人には入ってこない。

 阿笠は人が良い上、研究も趣味に走るので、志保自身が稼がないと、本気で彼の老後が心配なのだ。

「哀ちゃん、どうしてもいっちゃうの?」

 小学生の歩美達にすれば、隣町でも遠いのに、アメリカなどまるで別世界だ。

「行くわ。行って、うんと勉強する。大人達に振り回されることがないように、私が私でいられるように、もっともっと勉強するわ」

 自分の意志で生きることと、誰かの思惑で生かされていることは違うのだと、貴方たちに教わったのだから。私が前を向いて生きていくために、決して過去から逃げないと、そんな決意を込めた眼差しと唇に浮かんだ笑顔は晴れやかで、歩美達はただポロポロと涙を零して哀にしがみついた。

「もう、私は側にはいられないのだから、貴方たちも無茶をしたら駄目よ?」

 コナンも哀もいなくなる。だから、今までのように無茶をしてくれるなと、何度も念を押して。

 一応、哀を引き取る親戚として、赤井と真澄が歩美達に会って挨拶をした。

 流石に赤井だけだと胡散臭いというか、子供達が不安に思うだろうからと、彼らと顔見知りである真澄も哀の遠縁なのが分かったと説明したのだ。

「哀は頭が良いからな。アメリカの方が、哀のやりたい勉強ができる」

 暗に志保に戻るならアメリカに来いと誘う赤井に、まだ諦めていないのかと内心溜息をつきたくなる志保だ。

「でも、アメリカはみんな銃を持っていて危ないって」

「哀ちゃんが住むのは、治安の良い地域だし、こう見えて秀兄は警察官なんだ。だから、哀ちゃんを守ってくれるよ」

 ちょっと行き過ぎた過保護なこともあるけど、とは子供達の前では言わない。

 歩美達と別れるのは寂しいけれど、このまま哀やコナンが彼らの側にいれば、害になることも解っていた。

 今はまだ小学生。それでも何度殺人事件に遭遇し、死体をその目で見ることになっただろう。このまま行動範囲が広がり、犯人逮捕などと無茶をし続ければ、取り返しがつかない事態になる。コナンや哀が側にいないとき、自分達だけでと彼らが暴走すればその危険性はさらに高まる。

 元太や光彦がコナンに出来て自分達に出来ないはずはないと、ライバル心を持つようになれば、尚更だ。

 だから、コナンや哀は彼らから離れた方が良い。彼らが普通の子供に戻れるうちに。

「バイバイ」

 またね、とは言わない。灰原哀は彼らの前に二度と現れない。

 絶対手紙を書くと言う歩美に、返事を書くと答える。自分からは出したりしない。

 それでも、彼等との縁が切れてしまう訳ではないと思っている。

 わざわざ空港の搭乗口で別れる演出をした志保の頭を、赤井がポンポンと撫でるから、俯いた顔を上げることが出来なかった。

 実際、阿笠博士は歩美達の両親を呼んで、今後は今までのように子供達の引率は出来ないと告げている。

「勿論、遊びにきてくれる分にはかまわんのだ。ただ、コナン君と哀君が居なくなると、これまでのようにキャンプなどに連れていくのは無理になる」

「それは……」

 いままで、当たり前のように子供達の引率を引き受けてくれていた阿笠に、歩美達の親も感謝していない訳ではないのだが、頼りすぎていたことを言われて自覚した。

「儂は見てのとおり、爺じゃ。危ないことはせんように注意してきたが、儂に威厳がないせいか、叱ってもあまり堪えんようでな。いくら口で注意しても勝手に行動する彼等を追いかけて力尽くで止めることができん。今まではコナン君と哀君が側にいて、本当に危ないと思えば注意もしてくれたし、フォローもしてくれたが、彼等はいなくなる。年齢とともに行動範囲が広がる彼等を儂一人では抑えきれんのだよ」

 実際、しょっちゅう事件に巻き込まれていることは、親達もよく知っている。

「隣に住んでいた大学院生の沖矢君にも、本業である大学の研究の方より子供達の引率を優先しろとは言えん。すまんが、これからは皆さんでキャンプなどには連れていってやってくれるかのう」

「今まで、お世話になりました」

 そう言って頭を下げたのは、歩美の父親だ。

 自営業の元太の親達は、困ったような顔になる。

 実際、店が忙しく、学校が休みの間や放課後、阿笠に預けることが出来て、随分と助かっていたのだ。学校に勤める円谷の親も、自分達は帰りが遅いので、阿笠に預かってもらえるのは助かっていた。

「それにのう、彼等の承認欲求が心配なところもある」

「承認欲求ですか?」

「ああ、コナン君達がいなくなっても、自分達だけでも同じ事ができると思い、少年探偵団だからと事件に関わろうとするんじゃないか、流石少年探偵団だと周囲に認められようとするんじゃないかとな」

「それは……」

「彼等には感謝しておるんじゃよ。コナン君と哀君を受け入れてくれたのだから」

「光彦からよく聞いています。すごく頭の良い子供達で、行動力もあると」

 まるで、僕たちの親みたいなことを言うとか、怒るとお父さんやお母さんより怖いとも言っていたが。

「ああ、二人とも頭の回転が速い子達でな。コナン君は流行のゲームよりも本が好きで、元太君達のヤイバーと同じようにホームズがヒーローで憧れておった。だから事件に遭遇すると関わろうとするんじゃが、頭の回転が速い分、普通の小学生の子達の中では浮いてしまうんじゃ。哀君は知能指数が高く、両親が死んだ後は英才教育を受けたが、周囲は大人ばかりで同世代の子供達と接してこなかったから、コミュニケーションを取るのが苦手でな。彼等が曲がりなりにも小学校に通っていられたのは、元太君、光彦君、歩美君が受け入れてくれたからだと思っておる。ただ、コナン君の影響を受けた彼等が、自分達にも同じことが出来ると錯覚するのがまずいんじゃ。どうか親御さん達で厳しく注意してやって欲しいんじゃよ」

 いわゆる早熟な子達の親戚である阿笠は、コナン達に普通の子供として過ごしてもらいたいから、元太達を家に呼び、引率してくれていたのだと、その物言いから分かる。

 そして、コナン達がいなくなった以上、可愛がってはいても他人の子である元太達を引率するには責任が重く、負担が大きいということだろう。

 分かりましたと、光彦の親が答えると元太と歩美の両親も受け入れた。

 この後、三家回り持ちでキャンプや遊園地に連れていくことに決めたのだが、思っていた以上に出費がかかること、体力的にきついことを実感して、彼等は青ざめた。

 今までなら、月に一、二度は皆で出かけていたし、キャンプも定番だったのだが、駄目だと言われ元太などは不満を爆発させた。

 だが、キャンプにしても自分の車を出してもガソリン代に高速代、テントや場所の借り賃に食材や燃料の持参で数万単位の出費。遊園地に行けば1日パスポートを人数分と駐車場代に食費。

 そして、子供達は大丈夫だと大人の制止を聞かず、行ってみようと走り出す。

 危ないことをしては駄目だと言っても、このぐらいと光彦ですら不満顔を見せる。コナン君達がいた頃は、もっと危険なこともあったけれど、ちゃんと回避したし、殺人犯もつかまえたのだと胸をはる。これは駄目だと阿笠の懸念を理解し、彼等に一日付き合って疲労困憊して、ようやく阿笠の負担がどれだけ大きかったかを実感できたのだ。

 そうそう毎週のように連れて行けないと言われた元太が、だったら阿笠博士に頼むと言って、彼の両親はとんでもないと叱りつけた。

 今までお礼に菓子などは渡していたが、これまでの子供達を連れてのキャンプや外泊はそういうレベルではない程の出費だろう。

 気の良い阿笠は特に代金の請求などしなかったが、確かに自分の親戚であるコナン達がいないのに、元太達のために毎月5万を超える出費と労力を負担する理由が無い。

 それなのに、子供達は当たり前のように阿笠に連れていってもらえると思っている。阿笠の厚意にすっかり甘えていた自分たちの所業に、元太の親達は蒼褪めた。

 事件に遭遇するのにも慣れてしまっていて、彼等が話す内容も子供の冒険程度に聞いていたが、とんでもないことだとようやく気が付いた円谷の両親を筆頭に、危険な場所に近づかないように注意するのはどうしてなのかを懇々と子供達に言い聞かせた。

 コナン達が離れたことで、以前ほど事件に遭遇することもなく、歩美達は学校と家の往復が主になったようで、ようやく志保達はほっと胸を撫で下ろした。

 そして、今は子供達以上に厄介な大人達を前にして、志保が微笑みを浮かべている。

 研究者など、自分の興味があることに没頭する子供と同じ。我がままで、自分が世界の中心なのはどこの世界にでもいる。

 だから、何度でも言葉を惜しまずに説明する。

 これは、小学生である彼等と付き合って覚えた忍耐力と会話法だ。

「白雪姫の話を知っているかい?」

 そんな風に尋ねたのは、工藤邸でコーヒーを入れてくれた降谷だった。彼もコナン達が抜けた後の子供達を心配し、目暮警部を通して彼らの保護者に厳重注意を促すと顔を顰めていた。

 トリプルフェイスだった降谷も、この工藤邸や阿笠邸ではいくぶん寛いだ表情を見せる。

 一応、志保の様子を見に来たという口実だが、公安の顔もばれている分、素のまま気を抜くことができるのだろう。

 まあ、会いに来るときは仕事の依頼か結果報告書を受け取りにくることが多いのだが。

「ああ、小人達から見知らぬ人と接触するなと注意されているにも関わらず、見知らぬ老婆を3回も出迎えては暗殺されかけるという愚を犯す愚かな娘と、美しいからと死体を欲しがるネクロフィリア(死体愛好者)の王子の話ね」

 とても童話の話をしているとは思えない志保の言葉に、降谷が苦笑を浮かべる。

「まあ、そうなんだけどね。でも、当時白雪姫は7歳だったんだよ。小学1、2年生だ。注意されてはいるけど、応用が利かなかったとしてもおかしくはないよね?」

 最初は森に置き去り、次は老婆に化けた王妃によって腰ひもで締め上げられて窒息死しかけ、二度目は毒を塗った櫛で毒殺されかけ、三度目は外から解除できる方法だと小人達が助けてしまうと理解した王妃により、毒入りリンゴによる毒殺を仕掛けられる。

 何度も殺されかけているのに、どうして不用意に見知らぬ老婆を迎えいれては品物を手にしているのかと、最初読んだ時は思ったが。

 7歳だと聞けば学習能力がないというより、応用がきかないのだろう。それよりも、死体を欲しがる王子の元に、生きている白雪姫が嫁いで本当に幸せになれたのか?という疑問が残るのだが。

 王妃が確実な刺殺を選ばず、毎回白雪姫が仮死状態なのは、穿った見方をすれば、美しく成長する白雪姫に父王が邪な想いを抱いているのを恐れた王妃が城から逃がして仮死状態にしたという解釈もある。

「言われてみれば、そうね」

 少年探偵団の子供たちに、何度危ないから駄目だと言っても彼等は聞かなかった。

 危険な目にあったその時は反省するのだが、事件を解決するのだと、犯人を捕まえるのだと、そう言って哀の制止を振り切ってしまう。

 なまじ、側にコナンがいて、哀がフォローしたのも悪かったのだろう。

 事件が起これば飛び出して行くコナンの後ろ姿に、自分達もとついていこうとし、コナンばっかりズルいと拗ねた。

 少年探偵団なのだから事件を見過ごせないと言いながら、子供特有の飽きっぽさですぐに関心が移る。そもそも、高校生であるはずの工藤新一は、その外見に引きずられるのか、生来の性格なのか、一回り近く上年下の彼等によく付き合って遊んでいたが、お守というより本気で楽しんでいる風だった。だから、元太達もコナンを仲間と認めていたのだろう。

相手が素人なら、専門用語ではなく、解りやすい言葉を選ぶ。

 相手と目線を合わせ、表情を見て理解度を図る。

 そんなことを、彼等と付き合う時間で覚えた。突拍子もない彼らの行動に比べたら、言動や思考が読みやすい大人の方がまだ扱いやすいと思える。

 自分が犯罪者だという負い目は、志保の中に色濃く残っている。

 それでも、自分もまた研究者であることを辞められそうにない。

 コナンであった新一が、謎を追及せずにいられない探偵であるように。

 APTX4869が、毒薬として扱われるとは思っていなかったのは本当だ。

 死んだ両親が残したものが、その研究資料しかなかったのだ。

 記憶にすらない両親の生きた痕跡。迷い、苦悩、慟哭、そして可能性にかける思い。研究ノートに残された言葉に滲んだそれらが、唯一志保に両親と繋がっていることを実感させてくれたから、未完だった彼等の研究を自分の手で完成させたかった。

 まさか、それが薬物反応の出ない毒薬として使用されるなど思いもしなかったが。

 でも、気が付いておくべきだったのだと、黒の組織がどういう場所か、知っているなら善意で薬の研究をするはずがないということを察して、人を害するために利用されることを想定して当然だった、そう自分を責める志保を慰めたのは、幼児化した新一であり、幼児化したメアリーだった。

 本来なら、殺されて当然だったところが、偶然にもジンの気まぐれでAPTX4869を使われたから、生き残ったのだと。少なくとも、オレを生かしてくれたのは、お前がAPTX4869を作ったからだと。

 開発者と使用者が違えば、利用目的が違うなど当たりまえだと言われた。

 鉱山開発の為に、硬い岩盤を崩すために開発されたダイナマイトが、戦争で使用されて戦死者を量産する結果を生み、開発者であるアルフレッド・ノーベルが遺言でノーベル賞を創設したのは有名ないな話だが、今もなおノーベルの名を冠した爆薬製造や化学工業の会社はあるし、武器の製造工場も稼働している。

 結局、開発者の思惑など無視して使用されるのは世の常で、どんな商品を生み出すかよりも、運用する側の責任の方が大きいだろうと言われた。

 それとも志保は第二のノーベルを目指しているのかと。

 実際、不老不死にもっとも近いAPTX4869が本当の意味で完成したら、ノーベル賞どころの騒ぎではないだろう。

 世界中の自称『選ばれた権力者』達が狂奔する未来しか見えない。

 開発してしまったことを悔いるなと言っても聞かないだろうが、最悪の事態には間に合ったと思え。

 そして、ご両親が切望していたであろうAPTX4869で病人を救う方法を見つければ良いと。

 異端であると学会を追われたという両親の不名誉を挽回するためにも、志保は研究者である道を選んだ。

 だから、どれほど面倒でもこれは自分がやらなくてはいけないことだ。

 自分の名前で研究論文を発表するのは、今度こそ志保の研究を他人に悪用されないためだ。好きに使って良いなどと、二度と言わない。これは私自身だと、提出する論文には責任を持つと決めたのだから。

 と言っても、愛想笑いを30分も続ければ疲れてくるのだが。

 本当に、安室や沖矢の卒のない態度と笑顔がうらやましい。普段使わない表情筋を酷使しているので、自分の頬や目尻は痙攣をおこして引き攣りそうだというのに。

 悲鳴が聞こえた瞬間、振り返ると同時に走り出した工藤新一と降谷零は、もう職業病としか思えない。

 あの二人が飛び出したせいで、赤井と真澄が警護についてくれたが、彼等が警護に残ると思えばこそ、新一達は走り出したのだろう。

 哀だったころから、自発的に事件に関わろうとは思わない志保は、呼ばれれば行くというスタンスで、食事の続きを選ぶ。

 これまでろくに食べていないのだ。何かお腹に入れないと頭が回らない。

 最近は料理を見るとついカロリー計算をしてしまう。タンパク質だとビタミンCとB6が必須だが、工藤君の身体だとスタミナ強化や免疫強化も考えて、ビタミンA、B1、B2、B12、Eも外せない。肉に魚、赤身肉にレバー、海草にきのこ、乳製品に野菜、水溶性ビタミンは蒸し料理、ビタミンAとβカロチンは油と使った加熱料理とあれこれ考えてメニューを組み立てるのは面倒ではあるけれど、パズルを組み合わせているようで苦ではない。

 どちらかと言えば、隠れておやつを食べている阿笠博士の方が問題で、頭が痛い。

 別に蘭さんが工藤君のお弁当を作るのを邪魔しているつもりもないのだけど、と志保は溜息をつく。

 ただ、一週間単位で食材を考え、作り置きも組み合わせているので、そこに単発で蘭の考えたメニューを組み入れるのは計算が面倒なのだ。新一が好きだからと、ハンバーグやオムライスや唐揚げをメインにドンといれたお弁当だと不足する栄養素の補充計算が手間で、調味料をきちんと計って報告してくれないのはとても困る。

 蘭に作ってもらったら、調味料は目分量だし、この方が美味しいからと絶対カロリーや栄養素を考えて作らないと新一が断言し、少なくとも身体の数字が本調子になるまでは蘭に作らせる気はないし、作ってきても食べることはしないと言われてしまった。

 現状、放課後の買い食いもままならない状態なので、はやく身体を元に戻してあげたいのだが。

 運動部でカロリー多め栄養素重視の新一と、ダイエットメニューの阿笠博士、通常カロリーだが栄養素重視の志保と三人三様の料理を量と作り置きの組み合わせやひと手間かけることで調整している。

 志保が提出した使用した食材一覧と料理の写真の添付を見て、米花東総合病院の栄養士が唸ったほどだ。

 そして、インスリンを作っている膵臓のβ細胞が壊れ、インスリンが体内で生成されない1型糖尿病の子供を持つ母親にこれを見せても良いかと尋ねてきた。

 どうしても、糖尿病と言われれば周囲からは肥満からくる成人病の認識をもたれてしまう。それでも、バスケ部で頑張ろうとしている高校生の息子の応援をしているのだが、巷に溢れる糖尿病食のレシピは肥満対応で低カロリーなものが多い。

 そこに健康診断でメタボ注意を受けた夫と、ダイエットを気にする中学生の娘がおり、パートで昼間働いている母親にとって、日々の食事の用意は負担が大きかった。

 一人分ではなく三人分を、週一回の作り置きと調味料と量を調整してメインのアレンジによる組み合わせでカロリーを調整している志保の手順とレシピを病院側で公開すると、やはり 筋肉をつけつつ疲労回復の運動部向け高カロリーメニューと、ダイエット用の低カロリーメニューを同時に作ると言う内容は、特定の層に需要が高く地味に閲覧者が多い。

 流石に指導や質問までは手が回らないので、そこは病院の栄養士に丸投げしているが、 特売でまとめ買いした食材と、冷凍庫の保存と作り置きを含めた使い切りの方法を添えて写真で送るようすると、栄養士だけでなく閲覧者からも随分と感謝されてしまった。

 そんな志保に対して、すっかり新ちゃんが甘えてごめんなさいね、高校生なのにしっかり主婦しているわね、と有希子は笑う。

 彼女はもう着なくなった若い頃の服を、物は良いからと大量に志保にくれようとする。

 どうにも大人組は今までの反動なのか、過保護な上に志保をかまい倒そうとする傾向があるのだが、赤井と降谷には、どうせ贈ってくれるなら洗濯機でガンガン洗える服にして、と注文をつけた。有希子のくれる服は、確かに物は良いのだが、家で洗えない服がほとんどで、クリーニングに出すにも量販店の通常コースでは出しにくく、作業した人間の名前がタグで縫い取りされるような上位店のロイヤルやらスペシャルやらの高級ブランド用コースを選択するしかなく、ワンピースとスカートそれぞれ数点出すだけで料金が一万を超える。

 そんな服を普段使いできる訳がなく、メーカーやブランドにはこだわらないので、頼むから洗濯機で洗っても大丈夫な服にしてくれと言ったのだが、志保を着飾らせたい二人は不満そうだ。

 正直、彼等の金額に糸目をつけない貢ぎ度合は頭が痛く、人脈とツテを使って最新の業界誌や薬剤の研究レポートを送ってくれる優作に対しての方が、素直にお礼が言える。

 どうにも自己評価が低く、ファッション誌を見るのは好きだが、自分には似合わないと思い込んでいる志保を歯がゆく思っている有希子などは、着飾らせた志保を連れ歩きたいのだが、優作が苦笑しつつ宥めている。

 それでも、少しずつ自信を身に付け、大輪の花が綻ぶようにその存在を主張し始めた志保の様子を嬉しく思いつつ、別の心配に頭を悩ませている大人組だ。

 未来の選択肢は君の手の中にあるのだと、そう繰り返し志保は教えられた。

 無理に薬学に進む必要はないが、人を助ける薬を開発するのも一つの贖罪の方法だろうから、君が望むならその道を選べばよいと。

 人より優秀な頭脳と能力を必要とされている、それが長年闇組織に属していた志保の価値だった。

 新一との関係も、表面上は面倒だという風の顔をするが、手伝ってくれと言われれば期待以上の結果で答え続けてきたのは、間違いなく『相棒』であることに彼女が自分の価値を見出していたからだ。

 犯罪ではなく、コナンの手伝いをすることで、少年探偵団を通して自分の役割を見出し、自身の価値を認めることが出来たのだろう。

 だからこそ、阿笠達は志保には愛される、大切にされる、幸せを願われる価値があることを知って欲しいと願い、それを言葉にして伝えるようにしていた。

 戸惑い気味の志保の様子に、時間がまだしばらくかかりそうだと思いながら、新一と帝丹高校に通うことでなんでもない日常(新一と行動をともにする以上、その日常が事件込なのは彼等も諦めている)に慣れて欲しいと。

 正直、尊敬するイギリスのサーの称号を持つリチャード・ウォーリックから誘われたのは嬉しかったが、今はまだ組織に属することに抵抗がある。

 もちろん、個人の力の限界は知っているつもりだが、今の自分では作り上げた薬の管理を他人に預けることになってしまう。それが怖い。

 まだしばらくは、この日本で、阿笠の元で、庇護される子供として過ごしていたいのだ。いつまでも微睡の中で過ごせるとは思っていない。

 いずれあの家からも出る日が来る。だけど少しの間だけ、優しい景色に浸らせて。

 もっとも、高校生として高校に通っていても志保は自分の武器となる知識は貪欲に吸収している。

 自身の足で立つ覚悟を決めた志保は、他人を拒絶していた黒の組織時代とは異なり、あでやかに変貌していくのを赤井と降谷は感じていた。新一は身近に居すぎるせいで実感していないようだが。

 さて、いつになったらあの鈍感な探偵は気付くだろう。彼女は愛でられるために咲く華でなく、自身の翼で飛べる鳥だということを。

 彼女が新一の側に留まる理由がなくなった時になってから、慌てても遅いのだが。

WILD FLOWER