紫翠楼/WILD FLOWER

華香る 酔芙蓉 R-183月のライオン

島田×あかり

 頭の奥で音が鳴っている。歌声が聞こえている。

 何の曲だったかと記憶をたどる。

 ああ、思い出した。

 高校時代、選択でとった音楽の授業で聴いたオペラ鑑賞の演目だ。

 モーツアルトの作である『フィガロの結婚』

 喜劇とされる作品で、大団円でおわる演目だが、私はこの作品が嫌いだった。

 フィガロの婚約者であるスザンナに言い寄る伯爵が嫌いだったのだ。

 妻がいるのにスザンナを口説き、貴族領主の身分を利用した『初夜権』でスザンナを奪おうとする伯爵がどうしても受け入れられなかった。

 全幕を通して観ていれば、フィガロの機転でピンチを潜り抜ける場面や、登場人物が入り乱れる場面など楽しむ要素もあったのだろうが、私が見たのはダイジェストだったので、原文の言葉がよくわからないまま、母と私達を都合よい言葉で捨てた父と重なって、伯爵がスザンナに言い寄る場面ばかりが妙に残った。

 恋はした。

 したと思う。

 学生時代、好きになった男子にお弁当を渡そうとして、母の忠告を聞き入れず、気合をいれて、入れすぎて空回りして。

 洋服選びに悩んで、手をつないだらドキドキして、ファーストキスのシチュエーションを想像したらワタワタして。

 ファーストキスは唇が触れ合うだけのキスだった。最初はガチガチに緊張して、歯がぶつかって、お互いに気まずくて。ちっともマンガやドラマのようにはいかなくて。

 今振り返れば可愛いなと思えるけれど、あの頃は初めての恋にのぼせて、必死だったように思う。

 母が倒れて亡くなれば、次は祖母が倒れて、気持ちに余裕などなくなった。

 家のこと、妹たちのこと、お店のこと、母のこと、祖母のこと。気持ちも体も一杯一杯で、学校帰りは妹達の世話とチラシに〇をつけたスーパーのタイムセールを目指して、友達とケーキを食べに寄ることもなくなった。

 家事もお手伝いではなく、毎日の食事に洗濯掃除となると休みがない分大変で、全部やろうとしてパンクして。イヤイヤを連発するモモに、いい加減にしてとキレたり、出かける直前に服を汚したひなたを怒ったり。どうして上手く出来ないのかと落ち込んで、自分が頑張らなきゃとますます余裕がなくなっていった。

 そして泣きそうな顔で私を見るひなたとモモに、ようやく自分が空回っていたことを知って。こんな顔をさせたいんじゃないと、ごめんねと繰り返しながら、二人を抱きかかえて泣いていた。

 高校を卒業したら、同級生との接点はほとんどなくなった。

「大変そう」と同情して欲しいわけじゃない。「ごめん、川本にはわからないよな」と切るぐらいなら、最初から私に話を振らなければいい。

 大学生になった彼らとは、そもそも話が噛み合わない。単位や就職活動など私には縁がない。

 仕事の苦労や愚痴ならお店で聴いている。会社の業績、従業員への給与、会社の資金繰り、仕事と家庭で苦労している彼等に比べて、先輩とうまくいかないとか、自分には向かないとか、こんなに自分は大変なのだと訴える言葉が軽い気がした。

 辛さも悔しさも全部飲み込んで笑う人がいる。それを叔母の店で知ったから、余計に苦労を口にする彼等が随分と甘いように思えて。

 多分、彼等にすれば、それは本当に悩んでいたのだろうと、今だから思えることで、解決を望んでいるのではなく、ただ弱音をはいて「大変だね」と言って欲しかったのだろうとも思えるのだけど。

 叔母の店でドレスを着て化粧をして綺麗に装う。やっぱり女だから、綺麗な衣装は嬉しい。それでも、外見だけなこともわかっている。

 生活臭がする、重いと言われれば、大切な妹達が重荷だといわれているようで気が滅入った。

 同窓会のあれが決定的になって、恋人が欲しいとは思わなくなった。

 父が浮気して家を出ていき、そんな仕打ちをうけてなお父を思って母が嘆いて寝込んだのを見たせいで、結婚生活が幸せだとは思えなくなって、結婚願望も消えた。

 格好いいなと思っても、それはテレビで見る俳優やアイドルと同じ感覚で、その先を望むことは無くなった。

 だから、ずっと私の生活は家族が中心で、それが全てで。それを辛いとも不幸だとも思っていなかった。

 だから、だから、こんなのはおかしい。だって、私は知らない。知るはずがない。

 妹と祖父母以外で私が触れた、私に触れた他人なんて、いるはずがないのに。

 ぼんやりとしていた意識が戻ったのは、水道の水がコップから溢れて右手を濡らしていたからだ。

 慌てて蛇口を閉め、コップを少し傾けて水を零す。

 台所周りに見覚えはある。だが、それは川本家ではない。決定的に違うのは鍋と食器の数。

 歪になった大鍋が一つ。あとは18センチ前後の片手鍋と両手鍋にフライパン。炊飯器も川本家にある物より小さい。

 調味料は一通りそろっているが、どの瓶も小ぶりだ。食器は不揃いで1つ、2つから4つの組で棚に並んでいる。

 今風のシステムキッチンではなく、前世代の二口ガスコンロが載ったキッチンに4人掛けのテーブルがおいてある食堂。

 リーンと虫の音が聞こえてくる。

 ああ、何度か訪れたことのある島田の家だと思い出した。

 二階建ての築年数はけっこう過ぎている木造住宅で、島田の一人暮らしだが庭もあって川本家の敷地よりも大きい。

 庭に実った夏みかんを袋一杯、桐山を通してお裾分けしてくれたこともある。

 電気もつけず、薄闇の廊下を、水を注いだコップを手に歩いた。

 普段は玄関を入ってすぐ横、島田が零や二階堂達と勉強をしている部屋に入る。

 研究会を開いている和室、食堂は扉以外の壁全てに本棚があって、棋譜や関連書籍と資料が隙間なく並んでいて、将棋にどっぷりと浸かっている人の家だ。

 二階の二部屋は来客用の部屋と物置部屋だという。

 物置部屋だという六畳ほどの部屋は、立派な和箪笥には和服がおさめられ、プラスチックの衣装ケースに季節の洋服がたたまれて収納されているが、紐やクリップで綴じられた棋譜のコピーなど将棋関連のものも多い。客間の方には押し入れにセットではない客布団が三組あり、やはり壁に本棚があって、この棚だけは将棋以外の本が並んでいた。小説、紀行文、パズル、風景や動物の写真集、園芸、あとは幼かった二階堂のためなのか古びた児童書のシリーズ。ジャンルはとりとめもなく、ここだけ棋士以外の島田の顔がのぞく。

 もっとも、知り合いの棋士連中が泊まりになるときは、たいてい夜遅くまで将棋を挟んでいるので、そのまま下の部屋で雑魚寝になることが多いと言っていた。

 島本家よりも広い庭は樹木が多く、年に一度庭師の人に入ってもらうらしい。草ぬきは自分でしたり人に頼んだり、面倒だと言いながらマンションに移る気はないようだ。

 一人で住むには広いと思う家だが、日常使うところは掃除が行き届いている。

 普段、あかりがこの家を訪れるのは、日が高いうちだ。島田だけでなく、零や二階堂、島田と同期の重田という人達が将棋を囲んでいる日なら、そのまま島田の家で人数分の食事の用意をすることもある。三日月堂のお菓子を手土産におかずの詰まったタッパーを渡すと、空のタッパーと田舎から届いたという食材で返してくれた。

 それなのに、今は薄闇がひろがっていて、廊下にも明かりがなく、青白い空間ばかり。

 どこに電気のスイッチがあるのかわからないという訳でもないはずなのに(この手のスイッチは玄関の傍か、突き当りの横にあるものなのに)、そこには手が伸びず、当たり前のように足が向いたのは、食堂に近い和室の部屋。

 いつもなら入るのに躊躇する部屋だ。

 それなのに、声をかけることもなく、襖を引いた。

 畳敷きの和室で床の間がある。本来は客間なのだろうが、動線が楽なせいか、島田の私室になっている部屋だ。

 床の間には掛け軸と小ぶりの盆栽のような植木の鉢。普段使いの衣服がはいった箪笥に将棋盤。衣文掛けには脱いだ上着が無造作に掛けられている。敷かれた布団の枕元には盆にのせられた薬袋。常用しているらしいそれは、かなり嵩がある。

 詰将棋の本が数冊あるが、あったら際限なく読んでしまうからと、他に将棋関連の本はない。この部屋を知っていた…だろうか…

「島田さん、お水です」

 ウワンと頭の中で音が反響する。自分の声はこんな声だっただろうか。マイク越しのような、音が二重になって響く。

「ああ、すまん」

 疲れたように布団の上で寝そべり、顔を右腕で覆っていた島田がゆっくりと起き上がる。

 やはりこの部屋も補助灯すらついていない。真っ暗なはずなのに、青い闇が揺らめくのは、雨戸を引かず、障子戸も開けっ放しになっている窓から月明りが差し込むせいだろう。

 まだ昼間は暑い日もあるが、晩になれば風は秋の色をのせて涼しく心地いい。リーンと軽やかな虫の音が聞こえてくる。

 青い闇に染まって色はわからないが、多分白いシャツにベージュかグレーのスラックスだと思う。腕にはめたままの腕時計が鈍く光った。

 島田さんは桐山君より収入が多いけれど、身に着けているものは実用的な物が多い。その腕時計も外国のブランドではなく、国産。ただ、職人と呼ばれる人が作った品らしい。小さな傷も多く、随分と使い込んでいるとわかる品だった。

 対局で着るスーツと着物はオーダー品だと聞いた。背丈はあっても肩幅や厚みがないので、きちんとあつらえないと似合わないのだと。本人は髪を気にしていたけれど、量が少ないというより細くて柔らかいのでボリュームが出ないだけだと思う。

 島田は少し長めの前髪をかきあげて、あかりが差し出したグラスを受け取ると、一気に飲み干して大きく息を吐いた。

「島田さんがこんな風に酔うまで飲むなんて珍しいですね」

「仲間内で飲むならともかく、接待で飲むのは苦手でね。気を使いながら飲むのは疲れる。うちで飲むほうが気楽だし、美味いよ」

「あら…」

 今度、皆さんとお店にも来てください、そんな言葉が声にならず、喉の奥で消えた。

 思った言葉が声にならない?わずかな違和感に『はくっ』と息を吸う。

 幾分乱れた前髪のまま、島田が横に座るあかりを見ている。

 グラスを盆の上に避けた手で、あかりの左の二の腕を取り、引き寄せらせた。

 なぜかそれに逆らうことなく、ぐらりとあかりの上体が倒れる。

「先に休んでいろと言ったのに」

「だって…」

 あかりの肢体を抱き込み、おろしたまま流している髪に顔を埋めるようにして、島田が囁く声は、酔いのせいか、いつもより幾分掠れていて、甘やかに耳朶を打つ。

 旋毛にキスを落とされて「ひゃぁ」と声が出た。

「いろいろ気を使わせてるみたいでごめん」

「島田さん?」

「俺が普通に会社勤めのサラリーマンだったら、悩ませずに済んだんだろうなぁ。幸せにしますと、君のご両親にも挨拶できたかもだけど、君に心配かけてばっかだもんな」

 どこか自嘲の滲んだ声に、あかりは驚いて島田の顔を見ようとするが、頭を押さえられて見上げることがかなわない。

「島田さんが、すごく頑張ってるの知ってます」

「頑張るだけなら皆、頑張ってるよ。だけど、俺たちは勝たないと稼ぎにならない。負ければ収入ゼロだよ」

「それは…」

「ごめん、愚痴を聞かせたい訳じゃないんだ。ただ、年下の君に甘えてるなぁと思って。ちょっと情けなくなった」

「島田さんが私に甘えてくれるのは嬉しいですよ?」

 会話の流れがおかしいと気づかなかった。

 島田とこんな恋人同士のような会話をしたことなどないし、そもそも好きだと告げられたことすらないのに、島田の腕に抱き込まれ、髪を梳かれていることに違和感を覚えることもない。

 それどころか頬を擦り寄せて、両腕を島田の首に回して、あかりから距離を縮める。

「まったく、こんな格好してるし」

「これは…」

 腰まで大きく背中の開いたホルターネックのドレスは、あかりの好みではない。

 ただ、ちょっといつものドレスのサイズが合わなくなって、背中のファスナーが上がらず、叔母の美咲に怒られたのだが、とりあえず店にあった衣装の中で着られるドレスがこれしかなかったのだ。

 胸元にパットが入っていて背中が大きく開いているのでブラジャーをつけられず、シルクサテンの滑らかな生地で深いローズ色のロングドレスは、肌にまとわりつくような着心地だ。

「俺だけに見せてくれるなら嬉しいけどね」

 あかりを抱き締めていた腕が拘束を強め、脇を撫でて、無防備なサイドから胸元へとその掌が這う。その質量を確かめるように、下側から掬い上げるように掴んで、揉みしだかれる。

 あかりはその不埒な手を止めるのにその手を押さえるのではなく、島田の首に回した腕に力を込めて、彼の胸板に自分の胸を押し付けた。

 クツリと笑った気配がして、島田があかりの耳朶を口に含み、耳殻に舌を這わせて、耳元の下にある窪みを吸う。

 はふと吐息を漏らすあかりの背中がわずかに仰け反ると、島田の指があかりの首元にあったホルターネックの結び目を解いた。

 顎から首筋を島田の舌が這い、軽いリップ音をたてて吸われるのに、あかりの顎が上がり、首筋が無防備にさらされた。

 その弾力を確かめるように、形が変わるほどに力を込めて、まろい乳房を揉まれるほどに、ドレスの前身ごろが落ちて、上半身があらわになる。

 抱き込んでいた掌が、あかりの背骨を確かめるように撫でおろされ、生地と素肌の狭間を指で探られた。

「島田さん!」

 駄目だと、静止する言葉は口から出ず、島田の名前だけを呼ぶあかりに、また男が低く笑って、拒否は許さないというように、上ずる声を漏らす唇を自身のそれで塞いだ。

 言葉を奪うように重ねられたそれは、躊躇するあかりにかまわず、ごく自然に舌が差し入れられる。

 歯列をなぞられて開いた間を、タバコの苦みが混じる他人の熱が侵してくる。

 上顎をなぞられ、柔らかな口腔内を傍若無人に舐められ、奥へ逃げたあかりの舌を絡め取るときつく吸われ、島田の口腔へと引き出されて、彼の領域で舐めしゃぶられる。

 まるで、あかり自身が望んで、差し出しているかのように、島田にされるがまま舌を絡められ、口中から溢れる唾液を啜られる。

 詰めた息を吐きだすことが出来ず、あかりが浅い呼吸を繰り返す間に、島田の右手はバラ色のドレスを引き下ろしていく。

 肉付きの良いあかりの臀部を撫でた指が、一瞬止まり、確かめるように動く。

 ざらりと表面を擦りあわされて、ようやく解放された舌に、あかりが慌てて引っ込めると、息が混じる距離で島田が囁いた。

「どうしたの?これ」

 ピンと弾かれて、あかりは羞恥でのぼせそうになった。

「これは…普通の下着だと透けるからって……」

 べつにあかりとて着たくて着た訳ではない。下着のラインが透けたら、余計にいやらしいと言われて、仕方なく履いたのだ。それでも恥ずかしくて、恥ずかしくて、仕方がなかったのに、それを指摘されると身の置き所がない。

「いやらしいね」

 島田の指にクイっと引かれて、股間から臀部の狭間を細い生地ともよべない紐が食い込んだ。

 腰を一撫でした指が、臀部の狭間を辿りながら深くしいれられて、生地というより紐の上から爪でカリカリと擽られるのに、あかりは身を捩る。

 島田にしがみついて腰を浮かせたせいで、ドレスは床におちて膝で絡まっていた。あかりの造形を確かめるように島田の指があかりの肌を辿り、作り変えるようにそこかしこを掴んで揉まれる。

 触れられていない胸の先端がズキズキとして、痛みではないそれにフルリとゆすった。

 長く節張ったその指は、あかりの手と合わせる間でもなく大きくて硬い。

 二の腕を掴まれた記憶が肌に浮かんで消えると、ようやく違和感を覚えた。

 どうして自分は島田さんを受け入れているの?

 彼と恋人関係だったことはもちろん、こんな時間に一人で彼の部屋に入ったことも、肌をさらしたこともない。

 夢だと思う。

 私は舌を絡めるキスなんてしたことがない。

 幼いひなたとモモがいる家で、性的なものなど置けないから、アダルト要素のあるものはここ数年見ることすらなかった。

 逆にひなたが読んでいる少女漫画の内容に驚いたぐらいだ。

 それなのに、どうして自分は『知っている』のだろう。

「あっ……」

 か細い喘ぎが濡れた唇から零れたのは、敏感になった乳首を島田に甘噛みされたからだ。いやらしい音を立ててしゃぶられると、舌先で弾かれ、嬲られ、硬さを確かめるように歯を立てられた。

 繰り返されれば先端にジンジンとした感覚が増していくのに、あかりの両腕は島田の頭を抱き込んだ。

 チュッと音を立てて吸ってから、大きく広げた掌で掴んでいた反対側の乳房を引き寄せてその乾いた乳首に吸い付かれる。

 ヒクンと腰が跳ねたのは、下着とは名ばかりの紐の上から擽っていた指が、その紐を避けて、柔らかな花弁に埋もれていた花芽に触れたからだ。

 傷つけないように、それでいて新芽を摘みとるように、島田の指がいままであかり自身が触れることもなく、ずっと隠れていたそこを弄るのに、逃げようと腰が跳ねるが、背後から回された腕が双臀を割る格好で差入れられているので、島田の手首や腕に臀部を押し付ける格好になってしまう。

「いや…やだ…」

 拒絶の言葉は甘えるような響きが滲んでいて、泣きたくなる。島田の指で花芽を弄られれば弄られるほど、膝が左右に開き腰が落ちていく。

「だめ…ドレスがよごれちゃう…」

 借り物のドレスなのに、と今更の台詞が頭をよぎる。すでに膝下でグシャグシャになって皺だらけだろう。

「汚れたら、新しいの買ってやる」

「そ…う…じゃ…なくてぇ…」 

 駄目だと思うのに、島田の指の動きやその腕を妨げないように、立膝から左右に割広げられていく両膝のせいで、腰がどんどん落ちて、その掌と指先に柔らかな箇所を押し付けて腰を揺らしてしまう。

「本当に桃みたいにやっこい(柔らかい)な。気を付けないとすぐに跡が残るしなぁ」

 チリッとした痛みとともに、胸元に紅い花が咲く。一つ、二つ、三つと柔らかな肌に花が増えていく。

 青い闇に沈んだ肌の上、夜目がきいてもはっきりと見て取ることができないとわかっていて、島田が唇を当てる。

「あんまり煽らないでくれないか。君が思ってるほど余裕があるわけじゃない」

「だって…」

「あぁー、放っておいて悪かった。ちゃんと時間作る」

「無理して欲しい訳じゃないの。でも、少しは気にしてくれた?」

「気になって手がつかないと言って欲しい?」

「言って、私だけだって」

 将棋以外で、あなたの気持ちを向けるのは私だけだと言って。

 この家で暮らして、家事をしているのは自分がやりたかったからで、別に強制されたわけでも、体の良い家政婦扱いされているとも思わない。

 ちゃんと「ありがとう」「助かる」とお礼を言ってくれるし、ねぎらってもくれる。

 だけど、背中を向けられると「自分にかまうな」と言われているようで。

 顔をゆがめて額に脂汗を浮かべていれば、心配になるのは当たり前だ。

 それなのに、「もう休んで」、「病院に行こう」といくら言っても聞いてくれない。「先に休んでていいから」と気遣う言葉で振り払われる。

 力になりたいと言えば、「ありがとう」と言われ、「その気持ちだけで十分だから」と微笑まれてしまう。

 家事なんて、家政婦を雇えば事足りる。彼を精神的に支えて、安らげる場所になれないなら、何の為に傍にいるのかわからない。

 憧れと嫉妬の入り混じった眼差しで、「会いたい」と「必ず会いにあの場所へ行く」と言う相手はテレビに映る彼と同い年の棋士。

 それは憧れの芸能人を見るような顔では無かった。同い年でありながら自分とは全然違うと自嘲を混ぜて語るのに、両手を組んで唇に当て、瞬きすら惜しむようにじっとテレビに写されている人を見つめる。

 憎らし気に、口惜しそうに口元を歪めて、狂おしそうな恋うるような眼差しで、ひたりと視線をあわせたまま。

 あんな瞳で私を見てくれたことなどない。

 将棋が大事なことはわかっている。だけど、あんな風に私に会いたいと思ってくれたことがあるのだろうか。

 きっと俺のことなど気にも留めていないと、悔しそうに寂しそうに、新聞に載っている写真と名前を指でなぞるのに、私が嫉妬したことを知っているのかしら。

 あの人との対局と私の事故が重なれば、あなたはどちらを選ぶのかしら。結婚していない私は『他人』で、あなたは『他人』のために対局を捨てられるのかしら。あれほど会いたいと願っていたあの人との対局を捨てさせるだけのものが、私にあるのかしら。

 彼は優しい。優しいけれど「心配かけて悪い。大丈夫だから」と微笑まれると、拒絶されているように感じ始めたのはいつからだったのか。

「心配すらさせてくれないの?」と詰れば、痛みをこらえるように腹をさすりながら困ったように笑うのが歯痒くて。

 負けて落ち込むのを慰めようとして「もう少しで届いたのに」と呟いたセリフが、会いたくても会えない人を想うように聞こえて、私に会うためでもそこまで必死になってくれるのかと思って。

 ねぇ、もっと私を欲しがって、私にドキドキして。私に触れたいと手を伸ばして。

 そんな『女』の感情が零れる。

 違う!

 違う、違う、そんなこと思ったことない!

 触れて欲しいとか、寂しいとか、島田さんにそんな感情をもった覚えなんかない!

 彼はいつだって優しくて、その手と眼差しはあかりを不安にさせたり、脅えさせたりしない。こんな風にあかりの肌に触れたことなどない。

 それなのにどうして、自分のこの手は島田を突き飛ばすこともせず、縋りつくのだろうと、混乱の中であかりは甘い吐息をつく。

 自分はこんなこと望んでいない。望んでいないはずなのに、だったらこの感情はどこから来る誰のものなのか。

 島田の右腕があかりの肢体を抱えて支え、背中から腰を浮かせると、その左手がドレスを引き下ろしながら膝を掬い上げる。

 慣れた仕草で、あかりを敷布団の上に引き倒し、その両足を割って体を割り込ませると覆いかぶさるようにディープキスをされた。

 あかり自ら開いた唇の間、我が物顔で島田の舌が柔らかな口腔を舐り、絡め取った舌に己の舌を擦り合わせて啜られる。

 舌が感じる苦みと鼻腔を抜ける匂いは、島田が吸う煙草の味と香り。

 普段、モモ達を気遣って川本家では煙をくゆらせることのない島田だ。

 あかりだって、今まで煙草味のするキスなど経験がない。それなのに、どうしてこれが、島田がいつも吸う煙草の味とわかるのだろう。

 閉じることができぬまま、口腔を満たして溢れる唾液が顎を伝い、喉を伝い落ちていくのにゾクリとする。

 んくっと混じりあった苦みのある唾液を飲み込むと、島田が小さく笑った気配がした。

 いい子だと褒めるようにあかりの頭を撫でた手が、後頭部を捉えてより深く唇を貪られる。

 ゆっくりと絡めた舌を解かれ、ようやくあかりは息を吸う。チュと軽いリップ音をたてて下唇を吸われた後、溢れた唾液を拭うように顎から首筋を舌で辿り、胸元を吸われてそのまま腹部へと島田が下りていく。

 臍の周りを舌で辿られ、羞恥に島田の頭を必死でどけようと押すのに、島田が笑った。

 最近、ちょっと食べ過ぎて、お腹はタプタプなのだ。二の腕もプニプニで気になっているのに。乙女心が分かっていないと、島田の頭を押すのに、島田は脇腹を撫でて、そのまあ沈むようにあかりの下肢へとその身をずらしていく。

 そして、あかりの左足を掬うように抱えると、その肩に担いでしまう。

 幾分乱れた前髪の間から、あかりの表情と反応をうかがう島田の視線が痛い。

 むき出しになった太腿の内側を吸われ、次はどこを吸われるのかと、想像したあかりの背中がゾクンと震えた。

 そんなあかりの思考を読んでいるのか、焦らすようにあかりの太腿をさすりながら、島田が口づけながら、ゆっくりと奥に顔を埋めてくる。

 島田の右手はあかりの左足を捉えたまま、右手の指がゆるりと下着ともよべないわずかな布をずらし、淡い叢を梳いて、花弁のような肉ひだを広げる。

「駄目!」

 咄嗟に島田の頭を押さえたあかりに、島田が薄く笑う。

「何が駄目?」

「イ…ヤ…」

「好きだろ?ここを舐められるのも、吸われるのも…大好きだろ?」

「違…ぁ…あぁ…ァ…」

 いつもより幾分掠れて低い声が、青い闇を震わせる。囁くようにひそめられた声が、甘く誘うような響きを帯びて、ジンとお腹の奥がしびれたような、何かが溢れたような感覚にあかりは混乱する。違う、この先を期待なんてしていない。

 それなのに、島田から視線をそらせず、わななく唇で駄目だと繰り返す声は、ひそやかになる。あかりを見下ろしたまま、開かれた下肢に顔を埋めた尖らせた舌がむき出しにされた花芽を弾くのに、あかりの腰がビクンと跳ねた。

 綻ぶ様にふっくらとした花芽を濡れた舌全体を使うように舐られ、やんわりと歯を立てられ、クチュリを吸われるのに、あかりの腰がガクガク揺れ、駄目だという台詞も喘ぎの合間に漏れる意味のない単語になった。

 秘裂をなぞる舌に、あかりがのけぞる。そのまま、ここだと場所を教えるように尖らせた舌が、あかりの密壷をこじ開ける。

 濡れた質量のあるそれが、ゆっくりと花壁をなぞるように差し入れられ、深く深く犯していくのに、あかりの喉から甲高い声が漏れた。

 固い歯と熱い呼気が柔襞をかすめ、ジュルと啜られる隠微な音に耳を犯されて、あかりはかぶりを振る。

 知らないのだ、本当に。

 知識としては知っている。だが、それすらもロマンス小説を数冊と、マンガやドラマで知った『綺麗』なシーンで、こんな生々しいものではない。

 島田と恋人関係であったことはないから、夢だと思った。そして次に、これは自分の願望なのかと思って愕然とした。

 だが、自分に触れる島田の指や唇、舌でなぞられる感覚がリアル過ぎて、本当に夢なのかすら分からくなってくる。

 身じろぐあかりの左足を肩に抱えたまま、島田の指はあかりのビラビラを広げ、花芽を弄る。花壷を舌で犯しながら、あふれる愛液を啜られて、あかりは両手で島田の頭に伸ばすが、退けたいのか、もっとと押しつけたいのか、自分でも分からない。

 花壁を舌で撫で、花芽を音を立てて吸ってから、ようやく島田が顔を上げる。

 口の周りを拭うように舌を伸ばすのが、舌舐めずりをする『牡』じみて、あかりの奥からまた何かが溢れた気がした。

 枕元に伸ばされた手が挟んだパッケージに、あかりは赤面した。

 それが何か知っている。ただし、学校の授業でだ。こんな風に目にしたことはない。

 島田の右手はあかりの左足を捕らえたまま放さない。あかりの右足は敷き布団に落ちているせいで、無防備に下肢を晒したままで、ドレスは畳の上でグシャリと埋まっている。島田はシャツも脱いでいないのに、ひどく性的な気配が強くて、あかりを竦ませた。

 グッと島田が前のめりに身を乗り出し、あかりの左足を肩に押しつけると、しとどに濡れたあかりの密壷を質量のある熱塊が押し広げていくのに、あかりが仰け反った。

 痛みがないことに驚いた。だから、やはりこれは夢なのだと思った。

 初めては痛いという、知識はあったのだ。高校時代、すでに経験した子から、聞くともなしに聞こえてきた話題で、嬉しそうに恥ずかしそうに言う子もいれば、全然良くなかったと不満げに言う子もいたけれど。

 だけど、身体の中に違う芯が通っていくようなそれは、苦痛を伴うものでは無かったから、これは夢なのだと。

「随分と余裕だな?」

 あかりの顔を覗き込んだ島田が、口元を吊り上げて笑った。

「こんな格好、他の男に見せたのかと思えば、俺だって嫉妬する」

「違……」

「違わない。見た奴等はみんな想像したろうなぁ。吸われてピンと起った乳首がどんな色か、ブラジャーだけでなく、下も穿いてないんじゃないか、ここはどんな風に男を銜え込むのか、どんな声で啼くのか……俺は君を大事にしたい。だから、俺に酷いことをさせないでくれ」

 身を屈めた島田があかりの下唇を噛むと、自身の唇で覆うように深く口付けて来た。

 そして、大きく割り開かれたあかりの下肢は、島田を拒むことが出来ず、突き上げられるまま腰を揺らすしか出来なくなった。

「ああぁ……アァ……もう……」

「悪い、酒のせいでなかなかいけない」

「奥ぅ……やぁぁ……」

 下着の役目を果たしていないTバックだけは、なぜか脱がしてもらえず、そのまま島田の牡芯に犯された。

 痛みはないまま、トロトロに溶かされたそこを犯す肉槍を、あかりの蜜壷は柔らかく包みこんで受け入れた。

 疲れているからと嘯いて、浅く深く、緩急をつけて島田のそれが、あかりの中にある快感を引きずり出していく。

 イクという感覚を教えられ放心するあかりを見下ろし、ようやく自身の服を脱いだ島田にうつ伏せにされて、今度は四つん這いの格好で後ろから犯された。

 崩れ落ちた腕に顔を伏せ、腰だけ抱えあげられた格好は、伸びをする猫のような姿勢だが、淫猥な水音と肌を打ち合う音が行為の淫らさをあかりに教え、たまらないと首を振る。

「別に俺は良いけど、本当にいいの?」

「良いの……だから中に……」

「まあ、怒られて土下座するぐらいは…かまわないけどねっ…」

 深く突かれて、あかりが啼く。

 あかりは自分がおかしくなっていることは分かっていた。だけど、自分の意思とはまるで違う言葉がポロポロと零れるのを止められない。

「開さんの、……ちょうだい……」

 自分だけが裸で、島田が服を着ているのも嫌だったが、薄い膜で隔たっているのが嫌だった。何もかも混じりあうようなセックスがしたかった。今は自分だけを求めて欲しかった。

『開さんの子種をちょうだい。ねぇ、孕ませて』

 自分でも正気ならとても口にできない台詞を言って、腰を自ら掲げて見せた。

「本当に、どこかで浮気してないだろうな?」

 何かやましい事があるから、そんな風にねだるのかと、島田は笑ってあかりの双臀を叩いた。

「違う!開さん……開さんが欲しいの!」

「珍しく、今夜は欲しがりだな……」

 薄いゴム一枚、それが無いだけで、島田の性器はより熱と生々しさを帯びて、あかりを中から浸食していく。

 こんな風に抱かれたいと思っていたのか、こんな風に扱われたいと願っていたのか、こんな自分が内側にいたのかと、あかりは怯えながら悦楽に溶けた。

 力強い腕があかりを捕まえている。指先が繊細にあかりの肌と花芽を撫でるのに、無防備な背中と首筋を島田の唇と舌が辿るのに、ビリビリと感覚がざわめいた。

 初めてなのに、いや違う、男の人と経験などないのに、あかりの『雌』は島田の『雄』が欲しいと銜え込んで放さない。

 背後の島田が苦笑しているのが、恥ずかしくてたまらないのに、もっとと膝を開いて腰を上げる。

「いやらしいな……イヤらしくて本当に可愛い……」

 島田の指が、牡芯を銜え込んでいる縁をなぞりながら、耳朶を舌でなぞる。

 あかり自身が知らなかった感じる場所を、島田は次々暴いていく。それにあかりは身をよじって甘い嬌声を零す。

 声を抑えようとして唇を噛むと、その唇に島田は指を含ませてきた。普段、駒を指すのみに使われる細長く綺麗な指が、あかりの口中に三本入り込み、舌をその指で挟まれて喉奥を開くように促されると歯を立てることが出来ない。 

 密着した腰を回され、動きを促すように揺すられ、奥の奥、コツリと突かれた箇所にあかりの腰が戦慄いた。

「俺の子種が欲しいんだろ?だったら、いれてくれ」

「んぁ……」

 これ以上は無理だと思った。それなのに、開かれる。カチリと鍵が開く音が、あかりの脳内で響くと、島田の熱があかりを浸食する。

 どこか焦らすような動きだったのが、身を起こした島田が上体を起こすと、あかりの腰を掴み、ガツガツと自身の腰を打ち付けてくる。柔い壁が島田の牡茎に擦られて熱を帯びる。奥がどんどん開いてもっと奥へと島田を受け入れていく。

 島田の熱を受け入れる身体へと作り変えられていくようで怖くて仕方がなくて、首を振り立て駄目と叫び喘いだ。

 自分はひなた達の姉で母親なのだ。あの子達を育てあげるよりも大事なことなどない。

 それなのに、こんなこと……

 ああ、子宮口が開いたと、島田に囁かれて思わず目を見開いた。知らない、自分が分からないのに、島田にはあかりの事がわかる。

 そして、遂に訪れた熱の奔流。島田の精が注がれたのがわかる。ドクリと脈打つそれが、二度三度とあかりの奥に注がれる。

「赤ちゃん……」

「ああ、そうだな」

 ゆっくりと引き抜かれたのに、あかりの身体は不満だというように、ひくりと花壁がうずいた。

 トロリと、密壷からあかりの愛液と島田の精液が混じった淫液が溢れるのに、島田の指がふっくらとしたその縁を撫でた。

「零したら駄目だろう?」

 もう一度中へ押し込むように、溢れたそれを拭いながらあかりの密壷へと押し込める。 ジュプッと淫猥な音をたてるそこに、あかりはただシーツに顔を伏せた。

 避妊もせずに精液を注がれたら、妊娠の可能性がグッとあがるのに、そのぐらい知っているはずなのに、もっとと望む自分がいる。

「ほら、おいで」

 欲しいんだろ?だったら、『ココ』で俺をその気にさせて。

 島田のそれに手を伸ばしたあかりは、その熱に一瞬手を離したが、恐る恐るもう一度手を伸ばして、自分の秘処へと導いた。

 ゆっくりと、島田に向き合う格好で、その両足を開き腰を落としていく。

 先ほどに比べて、幾分質量と堅さが落ちたといはいえ、十分存在を主張する牡茎を沈めていくのに、島田が艶笑った。

 幾分目を細めるが、眦を下げたいつもの笑顔ではなくて、どこか獰猛なその艶笑は、あかりの動きを止めた。

 今更のように、その視線を感じて自分の格好が恥ずかしくなった。『はしたない』では足りないほどに、今の格好はまるでAVのようだと認識した途端、正気に戻ってカアッと血が上った。

 そんなあかりに島田がうっすりと笑う。

 見せつけるように、あかりの乳首を摘み、反対側を口に含んで舌を絡ませた。濡れた舌先で固く尖った先端を弾きながら、括り出すように反対側の乳首を引っ張られる。

 尻朶を掴んだ手に促されて、腰を揺すれば、あかりの密壷に収められていた牡茎が、徐々に質量と堅さを増して、あかりの花壁を擦る。

 雁首がこそげるように行き来するのに、あかりは身もだえた。どこまでも、身体の奥が開いて島田を受け入れるのに怖くなる。

「開さん!」

 動いて、突いて、奥に出して、島田に促されるまま、あかりが自分の指で花弁を開いて花芽を弄りながらねだる言葉を口にした。

 自分のどこが島田を受け入れているのか、自身の目で見て、指で確かめさせられる。

 あかりが零した愛液と島田の精液が混じったそれを、島田は指で掬ってあかりの口に含ませた。

 あかりは言われるまま、口に含んだ島田の指を舌でなぞり、爪まで舐めてしゃぶった。何も考えられなくて、恥ずかしくて、熱くて、苦しくて、島田が手を離せば水あめのような、甘く重い沼にどこまでも沈んでいきそうで怖かった。 

「っぁ」

 ふっと意識が戻った。

 そこは、いつもの川本家の2階で、隣にはひなたとモモが寝ている。

 何かおかしなことを口走っていないかと不安で、ドキドキしたが、二人ともよく眠っていた。ようやく、淫夢から解放されたと、あかりは甘い息を吐く。

 別に着ていたパジャマはいつも着ている3枚セットで買ったお徳用の綿のパジャマで、ボタンも外れていない。

 それなのに、ツキツキと乳首がうずいていた。無意識に内股を摺り合わせていたのは、なにかが伝い落ちてくるような感覚があったからだ。

 今まで、父が余所の女の人と浮気して子供を作ったと言っても、裏切られたと思いこそすれ、男女の仲を想像して汚らわしいとは思ったことが無かった。

 やはり、父親ということもあるが、あかりに男女の性交をリアルに想像できるだけの知識がなかったせいだ。

 だが、顔を覆ったあかりは、ようやく自分の父が母を裏切るということが、夫として裏切ることはどういうことか分かった。

 あんな風に母以外の他の女の人を抱いたのだ。

 掴まれ、流され、今まで知らなかった快楽に引きずり込まれ、四肢を支配される。

 自分のすべてを差し出して、一番無防備な場所を明け渡して、欲しいとねだって与えられて、すべてが一人の男によって作り変えられて。

 そして、もうお前はいらないと、与えられていたものすべて取り上げられたら。

 もっと良い男がいると、忘れてしまえと祖父も叔母も母を慰めた。

 だけど母は父の誠二郎を忘れなかった。いつまでも恋しがった。

 あかりは無意識に二の腕を掴む。身体の奥がまだざわめいている。

 どうして、と繰り返す。

 自分がひどくいやらしい存在に思えて、泪が滲んだ。

 ツキリと胸が痛んだのは、あかりの髪を撫でる島田の手の優しさを思い出したからだ。

『俺にはわからないから、君の好きなようにしてかまわないよ』

 キッチンのリフォームに関して、島田はそう言った。まるでそんな些末な事で煩わせるなと言われているようで、寂しくなった。二人で暮らすことは、島田にとって意味のあるものなのか分からなくなって。

 自分がモモやひなた達をおいていくなどありえない。

 それなのに、どうしてあの時、自分は島田の言葉に傷ついたのか。

 分からない。

 分かることが酷く恐ろしくて、あかりは瞳を潤ませながら、甘い息を吐いた。

 

 

 いつもより二時間ほど早く目が覚めた島田は、髪をくしゃりとかき回した。

 昨夜はよく眠れたのか、早く目覚めたのにすっきりとしている。

 何か、懐かしい夢を見た気がする。

 出て行った彼女のことだったろうか。

 今では多少の慕わしさが残っているが、申し訳なかったと思うことが多い。

 随分とわがままな自分に尽くしてくれていたと思う。

 漠然と、結婚まで考えていたが、あの頃はとにかくA級にあがることに必死で、時間がとれなかった。

 A級に上がったらタイトルを獲るまで、タイトルをとったら地元に名人を持ち帰るまでと引き延ばしていた気もするが。結局、自分に自信がないのだろう。

 将棋以外知らない、つまらない男によく付き合ってくれていたと思う。

 明るく朗らかで、読んだ小説、昨日見たテレビ、コロコロとよく笑って楽しそうに島田に話すのを聞いていた。

 綺麗な物が好きで、植物園とか水族館とか一緒に行って。つい、棋譜のことを考えてしまう島田に、膨れながらこういう時ぐらいは私のことを考えてと言われ、謝ること数回。

 ずっとこの家で一緒に暮らすことを考えていたから、彼女の使い勝手が良いように、キッチンは好きにリフォームすれば良いと言った。

 この家の持ち主は老夫婦で、二人で介護付きマンションへ引っ越すので売りに出された物件だった。

 新築のマンションはどこか落ち着かず、あの夫婦のように年老いてなお一緒に居られれば、縁側で自分は孫に将棋を教え、彼女が横で頬笑んでくれればいいと、この家を買った。

 不思議と田舎に戻っている自分は想像していなかった。ここで、やはり将棋をさしていた。システムキッチンは良いけど、大理石とか輸入資材だと合わないなぁ、いっそ内装もリフォームするかと考えていた。

 結局、キッチンはそのままで、老朽化した湯沸かし器と風呂をリフォームしただけだが。

 多分、自分がよかれと思ったことが、彼女を傷つけていた。

 格好つけたかった。あれだけ無様な姿をみせているというのに。

 心配かけたくなかった。今では後輩の桐山にも心配されている。

 やはり、自分には恋愛は向かない。恋愛に向けるエネルギーが足りない。

 本当に藤本さんのあのバイタリティーが羨ましい程だ。

 いや、あの女同士の修羅場には近寄りたくない。

 大切に愛せるなら、それが良かった。自分は大切にしているつもりだったけれど、足りないと言われれば、どうすることも出来ない。

 彼女が望む愛し方が分からない。

 このとき、頭に描いた『彼女』が誰だったのか、島田は自分に問わずに目を逸らした。

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