紫翠楼/WILD FLOWER

華香る3月のライオン

島田×あかり

 穏やかな秋口の晩だった。

 あの夏祭りの日以来、たまに店に顔を出す人はいつも静かに酒を飲んでいて、時には後輩達にたかられたり、奢ったりしているのを見かけた。

 ひどくスマートな飲み方をする人だと思った。あかりが勤める叔母の店に来る棋士達は明るい人が多い。

 勝って喜び、負けて落ち込み、落ち込みがはじけてハイなったり、力尽きて疲れた顔で座っている人など様々だったけれど、客筋はよくてあかりに無体なことを言う酔客はいなかった。無遠慮な会長の言葉が遠回しな励ましと知ったのは、苦笑いを浮かべて酒をあおった人の表情が吹っ切れたようなものに変わるのを見たから。

 そんな棋士達の中でも、あの人はいつも静かに飲んでいた。周囲が騒ぐのを笑って眺めていて、酔い潰れた人達の面倒を見て、時には代金を立て替えて払っていた。

 ようやく川本家に馴染んで、うちに遊びにきてくれるようになった桐山零が、中学生でプロデビューしたプロ棋士と知ってからも、あかりにとっては自信なさげな線の細い子供で、その彼が川本家を訪れるたびに手土産を持参するようになって、妹達のために買っただろう菓子の他、おすそ分けだと食材やら地方に出向いたと名産を抱えて来るようになって。

 その食材の出所が、あの人だと知って、お礼が言いたいと家に招いた。

 背が高く、そのくせ線が細く、優しい穏やかな空気をまとう男の人は、あかりに苦手意識をもたせない人だった。

 一回り以上年が離れているからかと思ったが、人柄なのだろう。

 人と関わるのが苦手な零や、彼の友人だという二階堂君が、そろって凄い人なのだと尊敬の言葉を惜しまない。

 子供将棋を教えているからと、幼いモモの相手もそつなくて、すっかり「あにじゃ」となついてしまった。

 卓袱台で広げた盤の前で、モモと二階堂が、ひなと零が将棋を指しているのを、番茶をすすりながら穏やかな表情で眺めているのを伺いながら、あかりはせっせと食材を切っている。

 差し入れと、差し出された鯛に蕪、青菜、卵、芋に人参、栗、茄子、新米15キロ。

 田舎から送ってきたのでと笑いながら、差し出されたそれが本当にそうなのかわからないけれど、ありがたくと受け取ったのは、緊張した面持ちで袋を差し出す零の存在もあった。

 胃痛持ちだというその人と、高カロリーは駄目らしい二階堂のため、鯛の蕪蒸し、青菜の黄身餡と一緒に、モモやひなのために肉巻きとコロッケにポテトサラダもつけた。

 パンプキンスープも出汁ベースで、野菜たっぷりのほうとう鍋風。

 デザートは零が買ってきたケーキ詰め合わせ。

 とにかく、お店の人にお勧めを聞いて、全部買ってきたというそれは、栗、サツマイモ、紫芋、しっとりチーズケーキにふわふわムース、チョコレートにイチジク、リンゴと秋の彩りで綺麗に彩られていて、迷うばかり。

 賑やかで、穏やかな食卓が、あかりは大好きで、視線を卓袱台に流しながら、口元がつい緩んでしまう。

 さて、用意が出来たと、声をかけようとした時、不意に電話のベルが鳴った。

 誰かと思い、受話器を取ると、名乗る前に聞こえてきた記憶にある声に、身体が固まった。

「ひどいじゃないか、あかり!」

「えっ……お父さん……」

 どうしてという言葉が、頭でグルグルと回っていた。

 受話器から聞こえてくる単語が、頭に入ってこず、流れていく。ただ、どうして責められるのかがわからない。

「だから、あかりからも言ってくれ、こんな仕打ちはあんまりだ」

「何のこと?お父さん」

「わかっているよ、あかりがこんな仕打ちをお父さん達にするような子じゃないって。だから、島田さんにやめるように言って欲しいんだ」

「えっ?島田さん?」

 何なのかと問い返そうとした受話器を横から取り上げられた。

「懲りませんね」

 冷ややかな声だった。今まで聞いたことがないほど、おなかの底が冷たくなるような、底冷えのする声音だった。

「言い訳は結構。これ以上川本家に関わるようなことをすれば…本気で息の根止めるぞ」

「え……」

 切れたらしい電話の受話器をおくと、無造作に取り出した携帯でどこかに連絡を入れる。

「島田だ、ああ、向こうから電話があった。念のために釘さしておいてくれ」

 会話は聞きとれないが、島田があかりの父に何かをしたのはわかった。

 じっと島田を見つめるあかりの視線に、バツが悪そうな顔で、頭をかいて卓袱台に戻ろうとする男のシャツを思わず細い指がつかむ。

「説明する。ただ、相米二さんや美咲さんも同席しているほうがいいかと思って」

 すぐに祖父と叔母の美咲に連絡をいれて、うちにご飯を食べに来てと伝えた。

 何だと、身内の二人が来た後も、島田がなかなか話そうとせず、とりあえず食べてからと困ったように笑うから、ちゃんと話してくださいと念をおして夕食を食べ始めた。

 何が何かわからない相米二さんや美咲は、微妙な空気を醸し出しているあかりと島田に首を傾げ、零と二階堂、ひなとモモは困ったうように顔を見合わせる。

 玄関の呼び鈴がなり、「すみません」と声が聞こえて、慌てて美咲が客を出迎えに行く。

 すると、見慣れないスーツを着た30代ぐらいのビジネスマンが入って来た。

「すまん、島田さん」

「いや、で?」

「ちゃんと釘は刺しておいた」

「なら、良い」

 番茶をすする島田に対して、とりあえず客用の煎茶を入れて茶碗をあかりが差し出すと、男はこういう者ですと名刺を出した。

「合同会社 佐伯企画 代表 佐伯良二……」

訳が分からないとういう風なあかりにもう一枚の名刺を差し出す。

「弁護士 佐伯良二」

「はい、普段は法人設立や、M&Aなんかが主です」

 ニコニコと人当たりの良さそうな笑顔でそう言った。

 弁護士、税理士、社労士、中小企業診断士、元銀行員などの八人で作ったコンサル会社なのだという。

「うちの税理士の御神本が島田さんの顧問税理士で、その縁で島田さんがおこなっている地元振興の事業のお手伝いなんかもしています。ほら、島田さん対局前後だと怪しげな投資話とかでもサインしかねないから」

「うるさいよ」

 カラカラと笑う佐伯に、島田が顔を顰める。実際、対局前後は判断力が極端に鈍って、使い物にならないことは自覚している。

「まあ、今回は面倒かけた」

「本当に、珍しい依頼だったねぇ」

 改めてと佐伯は居住まいを正し、あかり達の前に帯封のついた札束を5つ積んだ。

「どうぞ、甘麻井戸誠二郎氏から川本家に対する慰謝料です」

「えっ……」「それは……」

「慰謝料が納得いかないなら、手切れ金と思ってください」

 お金で縁を切ると言われたようで、自分達の存在をお金に換算されたようであかりは自分の右手をぎゅっと掴んだ。

「余計なお節介だとは思ったが……あの手の輩はほとぼりが冷めたと思ったら、性懲りもなく姿を見せる。きちんと手を切った方が良い」

「島田さん!」

「今回はあちらの奥さんが入院だった。だが、誠二郎氏やあちらの祖父母が倒れて介護が必要になれば、また現れる。あかりさんやひなちゃんを無料で使える介護要員としてだ。賭けてもいい、家族、身内だから面倒を見るのは当然だと寄りかかってくるぞ」

「あっ……」

「それに、今回のことで仕事も危うい。落ちる時は一気に落ちる。連帯保証人の名前に相米二さんや美咲さんの名前を勝手に使わない保証もない」

「もちろん、本人じゃない署名に効力はない、それでも質の悪い所から借りるとやっかいだし、『善意の第三者相手』だと、手続きにも時間がかかるから、お店へ悪影響がでるかもしれない。ちゃんと他人になる必要があると判断した島田は間違っていないと僕も判断する」

 それでも父親なのだという言葉をあかりは飲み込んだ。あの人は、自分で責任を負わない人だ。楽な方へ、楽な方へと流れる。

「あかりさんには申し訳ないが桐山の名前を利用されたら困る」

「えっ?」

「知り合いだというぐらいなら良い。だが、勝手に桐山の名前を使って資金集めでもされたら面倒だ。訴えられれば、桐山だけでなく川本家にも被害が及ぶ」

「そんなことは!」

「申し訳ないが、俺はそこまで誠二郎氏を信用していない」

 きっぱり言い切られて、あかりは口ごもった。

 相米二は複雑な顔で卓袱台に積まれた札束を見た。

「あって困る物でもありません。ひなちゃんやモモちゃんが大学や専門学校に行く費用にしても良いし、万が一のために貯蓄してもいい。許す気になれば、結婚費用に持たせればいい」

 穏やかな口調で島田に言われ、相米二は息を吐いた。最近、自分も入院して孫達の先行きを不安に思った所だ。ここは娘と孫達への慰謝料として受け取ろうと折り合いをつけた。

「島田さん、一体何をやったんですか?」

 複雑な表情のひなを気遣いながら、零が島田に尋ねると、島田はツイっと視線をそらす。

 そんな島田の態度に佐伯は笑う。

「誠二郎氏に腹を立てていたのは桐山君だけじゃなかったってこと。実際、桐山君詰めが甘いよ。口約束なんて、あの手のやからは都合よく忘れるよ」

「それは……」

「まず、あちらの奥さんが入院している病院に行って、入院費用3ヶ月分と引き換えに、今後川本家には関わらないと念書を書いてもらった」

 支払いが遅れていたから病院側からも催促が来ていたんだろうね、すぐにサインしたよ。公証役場にももっていって、知らないとは言えなくしました。と佐伯が笑う。

「もちろん現金を渡さず、そのまま病院に支払った。彼に渡したら、病院に支払うか怪しかったし」

 番茶をすすりながら、島田が言を継ぐ。

「でも、それじゃ……」

「そう、誠二郎氏は後妻さんと子供をおいて浮気相手と逃げました。入院費用の心配がなくなったと思ったら、即効だよ。本当にぶれないね」

「あいつは……」

 相米二が歯ぎしりをして、誠二郎に対する罵倒を口の中でつぶやく。

「そこで、俺の出番。後妻さんに『一番しんどい時に支えてくれない夫で良いんですか?お子さんを託せますか?このまま捨てられて良いんですか?』とね」

 誠二郎と浮気相手の親にも連絡し、慰謝料と養育費1200万を二人に請求。月々など払うはずがないから、一括で支払い請求。両親を保証人にして借金を背負わせ、きっちり支払わせたという。

「駄目だよ、桐山君。相手が知らせたくないっていうなら、そこは弱みなんだから、突かないと」

 そして、あかり達、川本家に対する慰謝料と養育費を誠二郎と後妻さんに請求。

 後妻の実家にも連絡をしたという。もともと不倫で結婚した二人を彼女の両親も良くは思っていなかったが、入院している身では他に頼る相手もいない。娘と一緒に実家に戻ることになった。

 良かったと、幼い母親違いの妹のことが気になっていたあかりは、ほっと息をついた。

「どうかなぁ、あれは」

 顎に手をあてて、佐伯が意地の悪い笑みを見せる。

「突然手にした1000万。孫娘のお金と認識していれば良いけど、家のお金と思ったらリフォームとか、マンションの頭金とかに使いそうだよね。だって実家にもどるんだし」

 お母さんのバック、ブランド物だったよ、と佐伯が笑うと島田もまた喉を鳴らすように笑った。

「1000万と聞くと大金だが、働かなければ数年で消える。桐山でも2年で稼ぐ程度の金額だ。使うなら、すぐに消える。特に自分で稼いでいない金はな」

「だよねぇ、貯めるとなると大変だけど、使うならすぐだよね」

 後妻のことを思って渡した1000万じゃないと、彼女の家を壊す可能性を見越して渡したお金と知って、川本家は言葉を失った。

 夫は出て行き、仕事もなく、病気なら実家に頼らざるを得ない。それでも、娘の養育費として受け取ったお金を親が勝手に使えば、反発をしない訳がない。下手をすれば、今度こそ親娘の間は完全に決裂する。

「それにしても、誠二郎と浮気相手がよくうちに金を支払ったわね」

 姉が死んだ時ですら、詫びもまともにしなかった男だ。

「そりゃ、俺優秀ですから」

 ニコニコと笑う佐伯を胡散臭そうに美咲が見やる。

 実際、誠二郎とその両親はごねた。

 どうして今更という気持ちがあった。だが、後妻が倒れた時、彼があかり達の元に行ったことを持ち出した。

 相米二が倒れていたこと、未成年の娘がいること、

「保護責任者遺棄罪ってしってます?老年者、幼年者、身体障害者又は病者を保護する責任のある者がこれらの者を遺棄し、又はその生存に必要な保護をしない罪なんですけどね。慰謝料で納得しないなら、こちらで争いましょうか?そちら教育者ですよね?外聞悪いと思いますが?法定刑は3月以上5年以下の懲役、罰金じゃないんですよ。懲役くらったら、再就職難しいとおもいますよ?もちろん誠二郎さんだけでなく、あなたのご両親も肩身狭いでしょうね。教育者としての肩書きボロボロですし、定年後どうします?」

「僕を脅すのか!」

 青ざめた顔の誠二郎に対して、佐伯は鼻で笑った。

「今回の依頼人ね、後妻さんでも川本家でもなくてね。知ってます?島田開。あなたがちょっかい出して怒らせた桐山零を可愛がっている先輩棋士。日本のプロの将棋指しでA級の中でも上位一〇人に入るトッププロ。島田さん、桐山君より稼いでるし、人脈もあるよ。なんせ同年代に天才の宗谷がいるのに折れずめげず、黙々と頑張ってA級になって宗谷に挑戦している努力の人だから、年配の経営者にファンが多くて、メディア受けも良いのよあの人。普段は温厚なんだけどね、本気で怒ると容赦なくてね」

 言葉をいったん切って、佐伯が薄く笑った。

「慰謝料で納得しないなら、保護責任者遺棄罪で裁判所に持ち込めってさ。裁判長引かせてあんた達の資産すり潰すまで、とことん付き合うって」

 言っておくけど、あんた達が家財全部売り払っても、島田さんが稼ぐ金に及ばないと思うよと、佐伯が笑う。

「教育委員会とか文部科学省とかにも島田さんのファン多いよ?変人揃いのA級の中で、人当たり良いし、地味なイベントもいやな顔しないで参加してくれるし?天才宗谷に対して凡才でひたすら将棋に打ち込むところも中小企業の社長とか応援してる人多いから。桐山君とは人脈比べものにならないよ?そして、島田さんはその人脈を利用することに躊躇しない程度には大人だ」

 川本家と桐山零には今後一切関係を持つなと、佐伯は言を強めた。

「その代わり、川本家側には遺産相続は放棄する旨一筆いれさせますよ?」

 妻は死んでいるが、娘三人は法定相続人であることを誠二郎は思い出した。

 やむなくをいう風を装いながら、改めて誠二郎だけでなく親族も川本家とは接触しないことを約束した。

「おい、何を勝手に」

「遺産相続って、死んだ後だよ。生前は確定にならない。まあ、あの調子だと資産じゃなくて負債背負いそうだけど。あちらの両親にも首に紐つけておけと念を押したよ」

 慌てる島田に佐伯がからりと笑う。誠二郎に両親には、このまま不始末重ねれば、そのうち勤務先の金使い込むよと、囁いた。

 川本家は無償の労働力ではなく、下手に手を出せば金を毟られると思えば、あちらも近づいては来ない。

「あちらのご両親、血圧高いらしいから。脳梗塞で倒れたら、誠二郎氏と浮気相手が介護とかするとは思えないしね。桐山君とか島田さんだと受けた恩は返そうとするけど、あちらは孫だから世話をするのは当たり前とか言いそうだ。あかりさんにしろ、ひなちゃんにしろ、そんな無償の愛情と善意を強要されたら壊れるよ?」

「佐伯さん……」

保護責任者遺棄罪で実刑まで持ち込めるかは微妙だろう。だが、あちらには裁判で戦う意思はないし、浮気で家族を見捨てた事実が不利に働く。はったり一つで相手に要求ののませるぐらいは、佐伯には造作もなかった。

 それに、実際に裁判になったら、島田が費用を出すと言っていたから、安心して強きでいけた。

「川本家に何かあったら桐山君が気にするし、桐山君が不安定になったら島田さんが気にするし?島田さんがタイトルに専念するためにも、安心させてやって」

 それで島田さんに胃に優しい料理作ってやってよと佐伯が笑う。

「余計なお節介だとは分かっている。それでも俺や桐山は常にそばにいるわけじゃない。相米二さんや美咲さんがいない時を狙って上がり込まれたら、言いように丸め込まれそうで怖いんだ」

「そんなに頼りなく見えますか?」

「家族だから、あかりさんは優しい人だから、心配なんだよ。お金がからむと身内だからこそもめるのを知ってるから。離婚しても、あかりさん達はあちらにしたら娘で孫だから」

 少しだけ視線をそらす島田に、あかりは泣き笑いのような顔をした。

 優しいのは島田の方だ。川本家を守るために奔走したのは零も一緒だけど、大人な分島田の方が容赦ない。

 父に対しての情がなくなった訳じゃない。許せない気持ちは、どうして?という疑問を伴ってあかりの中にある。

 それでも、自分はひなとモモを守ると決めていた。零とこの人を父に金づる扱いされて利用されるようなことだけは許せないと思う。

 余計なことをしてと怒ることも、ありがとうございますと礼をいうこともできず、あかりは「おかわりよそいますね」と茶碗に栗ご飯をてんこ盛りによそって島田に差し出した。

 引きつった笑顔を浮かべて茶碗を受け取る島田に、周囲の人達は苦笑を浮かべる。

 不器用な男だと相米二は思う。誠二郎からの電話がなければ、あかりに告げる気はなかったのだろう。

 後妻の入院費用の立て替えに、弁護士への支払い。一体あかり達のためにいくら支払ったのだろう。

 それでいて恩着せがましいところがない。

 本当に、これであかりのためだと言うなら、反対の一つも言えるが、桐山のためと言われたら面と向かって反対も出来ない。

 そして、これ以上誠二郎に引っかき回されたくないのは相米二とて同じ気持ちだから、反対する理由がないのだ。

 島田との仲を応援したいような、応援したくないような、複雑な気持ちで相米二は島田がもそもそと栗ご飯を食べるを見つめているあかりの笑顔を見ていた。

WILD FLOWER